花粧譚

ほっぺ(シャッフル企画)

〈1〉
一つ。花の種類はその人物によって異なる。
一つ。花の状態は致命傷となった創傷の位置により異なり、心臓
に遠ければ遠いほど蕾の状態に近く、近ければ近いほど満開の状態に近くなる。
一つ。花は女性にしか咲かない。
 一つ。花の美しさはその人物の美しさに比例する。
 一つ。花を身につければ、その美しさを一時的に手に入れること 
ができる。

 こぢんまりとした劇場内の奥まった場所に位置するその控室は、内装が煌びやかであるにも関わらず、そこに訪れた女を陰鬱な気持ちにさせた。部屋中に飾られたたくさんの綺麗な花々も、女を不快にさせる要因の一つに過ぎない。そして、余裕たっぷりに自分を迎え入れた人物の存在が、何よりも女の気分を害する。
「もう、引退した方がいいんじゃないですかぁ。」
 非番のため自宅に居た自分をわざわざ呼び出しておいて、開口一番がそれかと女は怒りのあまり眩暈を覚えそうになった。
「つまり、邪魔者は消えろってこと?」
怒りを抑え、震える唇で口にする。心外だ、と言いたげに彼女は右眉を僅かに吊り上げた。
「違いますよぉ。いくら昔美人だったって言っても、今は今だし……ほら、先輩ももう私たちみたくお若くないですし、ええっと、つまりぃ。」
 言葉を選ぶ姿がまた腹立たしいと、女は唇の端を強く噛んだ。口内に鉄の味が僅かに滲む。彼女は女の後輩だった。器量が良いだけでなく踊りも上手く、更には話し上手だと最近急に人気が出て来た子で、先輩である女を下に見ていることは明らかだった。
「邪魔だとかそういうんじゃなくて、私は先輩のためを思っててぇ……だってほらぁ、マネージャーたちが話すことを聞いていると、先輩にはもう――――、って。」
 ――――。口の中だけで反芻する。何度も、何度も。言い得て妙ですよねぇ、とけらけら笑う後輩の声を聞いて、自分の中で何かが途切れた気がした。
「今引退するのならまだギリギリ大丈夫なんじゃないかなっていうかぁ……。」
「わかった。」
「え?」
 テーブルの上に置いてあったモノに手を伸ばす。今となっては、何故それがそこに置いてあったのかはわからない。しかし、結果としてそれが女の運命を決定づけてしまった。後輩が振り返る(後輩が背を向けていた描写がない)のと殆ど同時に、女は手に持ったそれを、思い切り彼女の胸に突き立てた。
「もういい……よくわかった。」
 そして、気づけば後輩が死んでいた。誰が殺したかは明白で、右手に握る血塗れのサバイバルナイフがその証拠に他ならない。取り返しのつかないことをしてしまった。女は目の前の光景を他人事のように眺めながらそう思った。呆然とはしたが、不思議と頭は冴えていた。とりあえず、逃げなくては。自分は今日ここに来るべき人物では無かった。死んだ女の出番もまだ先だから、暫くここへは誰も来ることはない。甘い考えだとはわかっているが、もしかすると、何とかなるかもしれない。女はそう考えながら、もう一度だけ、死体へと目を向けた。
 その刹那、女の眼は"それ"に釘付けになった。非現実的ではあったが、現に目の前で繰り広げられている光景は紛うことなく現実である。女は恐る恐る死体へ近寄り、注意深くそれを観察した。
 信じ難いことに、後輩の死体から、未だに血の滴るその傷口から真っ赤な薔薇の花が咲いていた。
 女は恍惚の表情を浮かべ、満足が行くまでずっと、ずっとそれを眺めていた。いや、眺めていたというよりは、目を奪われたといった方が適切だろう。どれほど時間が経っただろうか。我に返った女は改めて目の前の状況を確認し、時計を見た。もう、行かなくては。しかし、その前に。女はゆっくりと手を伸ばし―――プチ、と。注意深く耳を傾けねば聞こえぬほどの小さな音を立てて、女は薔薇の花を死体から?ぎ取った。薔薇を実際に手に持ち、何故だか高揚感を覚えた女は、急いでいることも忘れ、簪のように茎を一つに結った髪の付け根に挿して見た。鏡を見たい。そう思って、すぐ近くにある死んだ後輩のドレッサーの鏡に自身の姿を映した女は、それを目にした後、暫し絶句した。

「嘘、でしょ。」

 鏡にはかつての、いや、それ以上の美しさを携えた女が居た。瑞々しくきめ細やかな肌、活力のある瞳、口角の上がった唇、艶やかな髪。どことなく、死んだ後輩に似ていると女は思った。信じられなくて、鏡から視線を逸らす。何が、起きてるの。薔薇を頭から手にとって、もう一度鏡を見てみる。そこにはいつもの自分が居た。嫌だ、嫌だ嫌だ。女は老いの現れ始めた自分の顔に、目を瞑りたくなる。下を向いて再び髪に薔薇を挿した女は、深く深呼吸をした。意を決して顔をあげた女は、思わず息をのんだ。そこには、美しい自身の姿が映っていた。そして、確信する。どうやら、この花には不思議な力がある、と。

「やっ……た。」

 私は、新しい美しさを手に入れたのだ。女はそう思った。




〈2〉
 早く飲みに行きてえな……。
 年相応に染みと皺のある顔を窓に向け、夕方の暗い冬空をぼんやりと眺めながら、壮年の男はふと思った。
「聞いてます? 植田刑事?」
部屋の前方から声がかかる。前方に机を並べ座っている、背広姿の男達の険しい目が、植田という名前の、その男を睨んでいる。
「ああ、すいません。」
 植田は申し訳なさそうに答え、窓から視線を外した。
「奇妙な事件で疲れるのはわかります。けれどもガイシャは七人にもなりますし、発生から一年経とうとしてるのです。担当はあなただったんですから、何かあったらすぐ言ってください。」
 そんなことはわかってるよ、でももう俺にはどうでもいいんだ。そう言いかけて止める。そんなことを言ってもどうにもならない。
 植田の居る捜査会議室では様々な報告と事件に関する質問、意見交換の声が雑然と飛び交っている。
「先月のガイシャの死体からは結局花は見つからず、数枚の白菊の花弁が周囲に散らばっていたようで……」
「しかし指紋はそれまでと一致、凶器や殺害手口も類似で……」
「今回はホシにとって”アタリ”だったわけか……」
「そうですね、それだと花弁しか残っていないという今までの話とも整合性が取れる……」
「逆に咲きかけだったり、枯れてたりすると”ハズレ”という見解も間違ってはいないようで……」
「ところでいい加減鑑識や科学課からは死体から花が咲く原因の調査報告は……」
「進展なし、原因不明だそうで……」
「しかしガイシャは女性ばかりで男性がいませんね、やはりホシは男だということで……」
 室内の熱気は暖房のせいだけではなかった。殺された女性の死体から花が生える連続殺人事件、という奇妙な案件を解決することに皆必死なのだ。
 しかし、植田は顔を前に向け、頷き、時折メモを取ったりはするものの、終始押し黙っていた。ネクタイも、スーツも、身に着けているものや行動は会議室にいる他の捜査員と何も変わらないのに、植田には、熱意とも呼べるものが、全く欠けていた。
植田はこの事件を発生当初に担当していた。しかし、その後捜査は殆ど進展せず、事件はついに七人もの犠牲者を出す、大きなものになってしまった。聞き込みや犯人像の推定も、あまりにも現実的でない、死体から花が咲く、という要素のせいか、成果を上げられなかったのだ。それでもやれるだけのことはやった。しかし、それ
をあざ笑うかのように先月もまた一人、若い、綺麗な女性が殺された。
 結局、疲れ切った植田に下ったのは、来月から別の課への異動辞令だった。
その辞令を受け取った時、植田の中で、何かの糸が切れた。もう自分には、無理だ。はやく次の部署へ行きたい。もう、どうでもいい、と。
 今、植田にとって最大の関心事は早く職場を離れて、鑑識課で知り合った、酒好きの若い後輩、土本とキャバクラに行くことだった。この事件を通して知り合い、たまたま馬が合った二人は良酒を飲みに行くことが良くある。今夜もその予定だった。
 普段は無口で、酔ってもあまり喋ることのない植田だが、居酒屋の、特にキャバクラの醸し出す、煩雑としながらも艶やかで、色気のある雰囲気が好きだった。土本は酔うと陽気になる性質で、場を盛り上げるのが上手く、植田にとって気持ちよく酔わせてくれる貴重な相手だ。土本と飲んで、早くこの嫌な気分を晴らしたい、今植田の心中にあるのは、このことだけだった。
「植田さん、早く行きましょ。」
 土本がかけてきた声でふと我に返ると、会議は終わっていた。
「ああ、そうだな。今日はキャバクラだよな。」
「そうですね。しかも、そのお店には今一番綺麗で、華がある人がいるらしいんです。楽しみですよね。」
「ああ、そうだな。じゃあ、準備してくる。」
 手短に答えはしたものの、片づけのため自分のデスクに戻る植田の足取りは軽かった。



〈3〉
横に座る若い男に腕を絡めながら、友里は嘆息した。スーツのネクタイを緩め、短く整えられた髪が乱れているのも気にしないで盛んにグラスを空にしている。男が調子よく語る武勇伝もポケットを膨らませる財布の中身も全く友里にとってはどうでもよかった。もてなし嬢として甚だ失礼な態度であることは自覚している。しかし、どうしても興味が沸いてこないのだ。だから自分で会話を盛り上げられない。
気づかれないようにそっと視線を泳がせ、斜向かいのテーブルに腰掛ける女性に目を向けた。何度見ても、こちらが恥ずかしくなるくらいに美しいひとだった。太ももの上までしかない赤のショートドレスをはためかせ、赤い紅を引いた唇を歪めて笑っている。彼女は(本名――をもじって)ここではローズと名乗っている。ローズはこの店の看板であった。雑居ビルの一部屋に、絨毯を敷いて、ソファとテーブルを並べただけの凡庸なこの店で彼女ただ一人が特別輝いている。この店は彼女、それ以外で構成されていると表現してもいい。年齢はもう三十手前だと噂されているのを聞いたが、その魅力は若い人と比べても遜色ない、と友里は思う。染み一つない肌、形の良い唇、ぱっちりとした大きな瞳。艶々と波打つ長い髪をいつも高く結い上げ、鮮やかな花飾りを挿している。花飾りはローズが一つ一つ生花から作り上げているらしい。手がかかっているだけあって、それらを身につけたローズは一層華々しくみえる。今日は白菊だった。友里は自分の短い、少し痛んだ茶髪の先を手櫛で梳く。
「ねえ、ちょっと。聞いています?」
横からの声にはっとする。まずい、と思い、なんとか場を持つ直すために、急いで笑顔を作り直す。
ソファの端が沈んだ。ローズだった。整えられた眉を寄せて、小さく私を睨み、リリー、と咎めるように、小さな声で呟いた。”ユウリ”をもじって付けた名、リリー。ローズに貰った友里の源氏名だ。申し訳なさで下唇を噛む。
「どうしました?」
「この人が全然話を聞いてないんですよ。客をもてなす気があるんですか?」
「あら勿体ない。私にもう一度話して頂けませんか。」
ローズが男の肩に胸を当て、耳に息を吹きかける。有里に向けられていた男の非難の表情が、ふっと緩んだ。胸をちくりと嫉妬が刺す。
男はローズに手渡されたカクテルを一気に喉に流し込み、今度はローズに向かって陽気に話し出した。ローズはこちらをちらりとも見ない。罰だ。友里は思う。
「僕はねぇ。警察なんですよ。」
「まあ。すごい。」
男はふふんと鼻を鳴らして、話に惹きつけるように声を低くした。
「いま僕が追ってる事件はね。なんとあの連続……」
「こら、飲みすぎだ。」
ソファの端で黙ってビールを飲んでいた、別の壮年の男が、鋭く口を挟んだ。横にいる若い男の上司だろうか。若い男は慌てて口を噤んだ。ローズの気遣いで持ち直した場の空気が、また沈んでしまった。
友里はできるだけ音を立てないように小さく、息を吐いた。それが悪いことだと分かってはいたが、沈黙の中にひっそりと隠れてしまいたかった。
弾けるような明るい声で場を取り直したのも、またローズだった。
「じゃあリリーちゃん。あのことを相談してみたら? 市民の生活を守るのも、警察の役目でしょう、ねぇ?」
「え?」
急に話を振られて、グラスを取り落しそうになる。
「なんですか?」
「あの、ええと。大したことではないのですが……。最近ストーカーされているみたいなんです。」
壮年の男もジョッキを口に運びながら、視線は有里に向けている。自分に注目の目が集まるのは、こんな仕事をしていながら、苦手だ。気を遣って話を振ってくれたローズに申し訳なく思うも、逃げ出してしまいたくなる。
そういえば二日ほど前にも、客の前で何も言えなくなりひどい自己嫌悪に陥ったことがあった。自分を心のうちで責めながら、相手の表情を見ながら場を作ることも、軽快に笑うことも、口を開くことさえも出来なかった。なんとかしないと、焦れば焦るほど頭のなかが真っ白になっていく。
ふと視界に鮮やかな黄色が割り込んできた。顔を上げると、客の微笑む顔が目の前にあった。白髪交じりの黒髪を上品に束ね、落ち着いた灰色のスーツを着たその客は、友里の非礼な態度を咎めることなく、一輪の黄色い薔薇を差し出していた。呆然とそれを見つめる友里の手に花を握らせ、「頑張ってな、可愛いお嬢ちゃん」と言うと、帰って行った。
慰められたのだと、そして励まされたのだと理解できるまで時間がかかった。思えば客から物を贈られるのは初めてだ。家に帰ってすぐに活けた薔薇は、地味な友里の部屋では少し浮いていた。けれどそれが友里には頼もしく思えた。これに恥じないように頑張らなくては、そう思えたから。
喉がからからなのに気付いて、カクテルを飲んだ。咳を一つして、黄色い薔薇を頭に強く思い浮かべる。そうして胸を落ち着けてから躊躇いがちに口を開く。
「小さいことなんですが、控え室に置いておいた荷物が荒らされていたり、帰り道で視線を感じたり……」
「勘違いじゃないですか?」
「そうかもしれません。」
「なあんだ。」
若い男がソファーに倒れこむ。壮年の男もため息を吐いた。
「あのね、ストーカーというのは、押しなべて被害者に伝えたいことがあるものなんですよ。」
「はあ。」
「それに心当たりはありませんか?」
「いえ、特に……」
「過去にこっぴどく振った男がいるとか、行き過ぎなくらい贔屓にしてくれる客がいるとか。」
私は黙って首を振った。
「じゃあ恐らく勘違いでしょう。けれども、もし写真なり手紙なり送られてきたら、あまり触らないようにしてここに連絡してください。僕は鑑識なんですよ。何かお役に立てるでしょう。」
若い男はそう言いながら名刺を渡した。ローズは抜け目なく店のピンク色の名刺を手渡す。壮年の男は呆れたようにその様子を見ていた。
「お前は本当に酔うと性格が変わるな。」
彼は腕時計を見やって、鞄を持ち上げる。そろそろ潮時、の合図だ。ローズがお代を受け取って、二人は帰って行った。
外で見送りを終え、店内に戻る途中、渡された簡素な名刺を弄びながら、友里は自分がひどく疲れていることを感じた。
「お疲れ様、友里ちゃん。」
「いいえ、あの、フォローしてくれてありがとうございました。」
「そろそろ慣れてもらわなきゃ困るわ、なんてね。今日はもう上がって大丈夫よ。」
これ以上迷惑をかけるわけにいかない。ローズの言葉に甘え、早めに帰らせてもらうことにした。控え室に戻って、自分のロッカーを開ける。あれ、こんなに鞄を奥に入れただろうか。恐る恐る引き寄せて、中を覗き込む。荷物の一番上に乗せてあった、ケータイの画面がまるで一文字に切り裂かれたように、割れていた。

「友里ちゃん。」
振り返るとぞっとするほど冷たいローズの顔があった。殺気さえ内包しているような、林檎のように赤く艶のある唇が開く前に、友里は慌てて言う。
「いや、まだストーカーの仕業と決まったわけじゃないですから。」
「友里ちゃん。」
「私が乱暴に扱っていたせいで壊しちゃったのかも。」
ローズは違うのよ、と言いたげにかぶりを振った。アップに結い上げた髪から一房落ちる。
「危ないわ。今日は家まで送らせて。」
「大丈夫ですよ、そんな。」
「送らせて? 私の我儘よ。」
懇願する目でそう言われれば頷くしかない。手鏡で確認した自分の顔では到底接客に戻れるはずもなく、まだ仕事の残るローズを待つことになった。頬が不気味に凝り固まっている。慌てて両手で揉み解して、無理やり口角を上げた。ローズが暗く呼んだ名前が耳の奥でこだましている。言いようのない恐怖がとぐろを巻いている。
ふいに首筋に何かが触れてはっとした。すぐ傍でローズが笑っている。彼女はときどきこういう、小さな子供の悪戯のようなことをする。ころころと入れ替わる表情に目が離せなくなる。肺を圧迫していた空気を吐き出せば、代わりに静かな菊の匂いが入ってきた。
「待っていて、ね?」
「はい……。」
いい子、と頭を撫でられる。その手つきはいつもの、あやす様な柔らかいものだった。友里はその白い手首に頬を摺り寄せたい衝動を必死に抑える。また覗き込んだ鏡の中で、自分の顔は仄かに紅色に染まっていた。ローズの赤いドレスが、グロスが、カクテルが、そのすべてが自分に染み込んだせいのように思われた。
日付が変わる前にローズは仕事を終わらせ、控室に戻ってきた。買い物がしたいから、駅で合流しましょう、と言いローズは先に出ていった。暫くしてから有里も店を出て、最寄りの駅で合流した。
ローズの手にはぱんぱんに膨れた有名ブランドのボストンバッグがあった。
「何をそんなに買ったんですか?」
「こういう気分のときは楽しいことをするのが一番よ。飲み直しましょう。」
ローズはバッグの口からちらりと酒瓶を見せた。普段間違っても手を出せない瓶も、彼女の手の中には馴染む。自分の部屋を片付けておいてよかった。心底よかった。
ローズと一緒の電車に揺られて、ローズと一緒に帰路を辿った。いつも夜に一人でジンジャエールを買う自販機の前をいま、ローズが通っている。いつも挨拶する猫に、今日はローズも声をかける。ああ、幸せだ。友里は思った。
玄関ドアの鍵穴を開けると使い古された家具たちが、しゃんと背筋を伸ばして友里と客人を迎えた。ローズは小さく笑った。
「可愛い部屋ね。友里ちゃんらしい。」
「いえ、そんな……」
「うふふ、謙遜しなくていいのよ。」
彼女の白い爪先が、カラーボックスに座る茶色いテディベアを弾いた。テディベアは失神したように後ろにこてんと倒れる。
友里は一人暮らし用の小ぶりな冷蔵庫を開けて、材料を取り出し、簡単なつまみを作るため台所へ向かう。
「花の匂いがする。」
 ローズの声が背中越しに聞こえた。
「お客さんに貰ったんですよ。綺麗ですよね。」
あの客に贈られた薔薇は玄関のカラーボックスの、テディベアの横に飾ってある。花瓶の備えがなくマグカップに活けたのだ。ローズも気に入ってくれただろうか、そう考え、少し嬉しくなった。
「違うわ。」
けれども返ってきた返答に有里は耳を疑った。
とても冷たい声だった。しん、と空気が凍る。腕にぞわりと鳥肌。包丁が切れ味を増す。こん、とまな板に先が触れて硬質な音が響いた。
「違うわ。もっと醜い、ひどい臭いの花よ。」
この部屋に三人目の女がいたのかとすら思うほどだった。振り返るとローズと目があった。幼いころに読んだ絵本の、雪の女王をふと思い出す。勝手に足が震えだした。
こんな彼女を見たことがなかった。美しくて、優しくて、憧れの、大好きな。さまざまな形容詞が浮かんで彼女の足元に散らかっていく。そこにいたのは紛れもなくローズなのに。彼女は、誰だ。
「きっと貴女の花のにおいね。」
彼女は白い爪先でバッグを弄った。上品な仕草でするりと何かが光る。友里の手の中にあるそれとよく似て、もう少し細身でよりきらきらと輝く銀色。
「友里ちゃん。私貴女のこと可愛がってあげたわよね。」
「え……。」
「そうよね?」
振れるだけ首を縦に振る。
「貴女その薔薇をくださったお客様の名前を言える? 言えないでしょう。駄目な子。愚図でいつまでたっても半人前にすらなれない。」
「ローズさん、どうしたんですか。」
ぎこちなく言葉を発することができると、体中の感覚が一気に戻ってきた。必死に記憶を探る。黒い眼鏡、スーツの、短い髪の、ええと確か仕事は警察官……。いやそれは今日のお客さんだ。
「思い出せないみたいね。貴女は本当に私しか見ていないのね。私の横のお客様だけ透過するなんて都合の良い頭ね。」
「その薔薇は本当は私が貰うはずだったのよ。それなのにあの人が、これは若い人にこそ似合う色だと言ったのよ。」
「ねえ友里ちゃん。どうして? ね、どうしてそんなことをするの?」
畳み掛ける言葉。ごとんと人参が床に転がる。
「私は、何も……」
「口答えしないで!」
ヒステリックな叫びに耳を覆う。目の前に立つのは、誰だ。嫉妬の炎で顔を染めている女は。ゆっくりとフローリングの床を歩いてくる女は。私にナイフを振り上げる女は。
ローズがずっと好きだった。店のドアを開けて、煙草の煙で燻った中で、ファッションショーのモデルよりも輝いていた彼女を初めて見たときから虜だった。二人での飲み会。仲良くなるチャンスだと楽しみにしていたのに。
「ねえ、せめて綺麗な花を咲かせてね。」
彼女の服に赤が飛んだ。ローズの口元が綺麗に歪む。友里の好きな笑顔。彼女はやはりローズだった。美しくて、優しくて、憧れの、 真っ赤の似合うローズ。私の大好きな。
割れたマグカップから、水が一滴床に垂れた。








〈4〉
 私は最初の後輩を殺害して手に入れた薔薇が枯れてしまうと、すぐに次の犯行に及んだ。死体から咲く花は、不思議と暫くの間枯れないので、間隔としては一か月かそこらだったと思う。
刃物を逆手で持って使用すると力をより入れやすいと聞いたことがあったので、二人目からはその理論を採用することにしていた。思いの外抵抗されるときは、一刺しでは済まなかったが、それでも今回はまだマシな方だ。なるべく心臓を一刺しで終わらせてしまうように心掛けてはいるが、そうそう簡単に上手く行くはずがない。 
なるべく心臓に近い場所で咲かせたい。そう思って、最後に心臓にもう一刺し。そうすればもう彼女は動かなくなった。これから先は辛抱強く待つ必要はない。花が咲くには長くても三十分もあれば十分だった。それはまるで植物の成長記録を早送りしたようであり、今までに数回見て来たが、その光景は何度見ても感嘆してしまう。
 その花は、夜の闇に青白く浮き出るように咲いていた。一瞬だけ目を奪われる。しかし。

「……違う」

 咲いたのは、白百合だった。しかし、役に立ってくれることは確かだろう。花弁の淵に瑞々しく滴る水滴が、電灯の光を反射して輝いている。
 事切れた彼女が咲かせたのは、自分の望むものではなかった。これで、九人目か。しかし、役に立ってくれることは変わりない。死体を目にしながら女はそう思い、かつてそうしたように、薄い笑みを浮かべながら、静かに花を手折る。まだ、自分が心から望む花を咲かせたものは、一人も居ない。
 家に帰り、テレビをつけるとニュース番組のキャスターが、真剣な顔でニュースを読み上げていた。巷で噂になっている、連続殺人についてのニュースだった。犯人は男であることが今のところ有力な説となっているらしい。しかし自分にしてみればどうでもいい話だった。
ただ、連続殺人の被害者とされる人数を聞くと違和感を覚えた。被害者は今のところ八人だと警察は発表しているらしいが、正しくは九人だ。被害者とされる名前や顔写真が表示されて、すぐに合点がいった。ああ、警察は彼≠数に入れていないのか、と。
 二人目に選んだ相手が彼だった。とても美しい男性だったので、きっと美しい花が咲くと思ったのに。何故か彼からは何も芽生えなかった。不安に思いながらも、少し時間を置いて今度は女性を殺害してみたら、あの女と同じように花が咲いた。そのことから、私は「花は女性にしか咲かない」と学習した。そして、それは同時に「女性を殺害する度に花を手に入れることが出来る」ということに他ならず、私はその事実に心から安堵した。私は彼女たちの花がなければ、今いる職場で振る舞っているようには到底振る舞えない。私は、もう、私≠ニして勝負することが出来ないのだ。
 髪から白菊のヘアードを外しながら、化粧を落とすために洗面所へ向かった。一日で一番嫌いな作業。洗面所の鏡を見れば年相応の――あるいはそれ以上にも見える――壮年の女性が、落ち窪んだ目でこちらをじっと見つめていた。それはそれは恨みがましそうな目だった。かつての美貌はすっかり影を落としている。それどころか、もはや自分に彼女たちのような若い頃があったかさえ疑わしい。あんなに私は他の誰よりも美しかったと言うのに。それは、ほんの少し前のことであると言うのに。
 もし私が彼女たちと同じように死んだならば、かつて私が目にし、手に入れたような薔薇が咲くだろうか。いや、きっと咲かないと自覚しているからこそ、私は彼女たちに咲く花を求め続けるに違いない。
 つまるところ、私は彼女たちの若さが、美しさが、ひどく羨ましかったのだ。かつて私が同じように、あるいは彼女たち以上に持ち合わせていたもの、もう二度と戻って来ない、私の過去の遺物。それらを自分のこの手で手折るのは何とも形容し難いほどの快感だった。そして、そうすることで私はその美しさを一時的に自分のものにすることが出来る。
 もう一度だけ、鏡に自分の顔を映してみる。微笑んだつもりのその顔は――醜い。思うより早く、涙が滲んだ。最初から分かっていた。もう、取り返しがつかないのだと。そう、かつて殺した、美しい薔薇を咲かせたあの女が言っていたように。
 嗚呼、私には華が無い。

2013.6.20
『紫』第七号