約束

OB作品


その村の鳥居は空襲によって、柱が折れ根元に近い部分しか残っていない。
戦争が終わってからまもなくして、一人の若い女がその鳥居の前に立ち始めた。女は朝から晩まで何をするでもなく、そこに立ち続けていた。村に家を借りて住み、来る日も来る日も立ち続けていた。
村人は女の端麗な容姿に目を奪われ、また女の目的が気になり話しかけたが、女は憂鬱そうな顔で首を振るだけだった。
それから一年、その女は、焼け折れた鳥居と同じ様に、ごく当たり前な風景の一部になっていた。
「そんなところで何をしているのですか?」
いつものように鳥居の前に立っていた女は、突然の声に伏せていた顔を上げた。
旅装をした男が、花束を片手に立っている。赤や黄色、白い花弁が鮮やかな花束に女が視線を向ける。
「ああ、コレ差し上げましょうか?」
女の視線に気づいた男が女に花束を差し出す。
「キレイでしょ?曼珠紗華まんじゅしゃげっていう名前なんです。旅の途中で摘みました。華麗なあなたに実によく似合ってる」
女は憂鬱そうに首を振ると、花束から視線を外し、地面を見つめた。
「ところであなたはこんなところで何をしてるんですか?まさかお参りでもないでしょう。焼けて何もありませんもんね」
男は首を伸ばして鳥居の向こうの焼野原を見た。痩せ細った真っ黒な建築物の残骸以外は何もなかった。
「遠路はるばるここまで旅をして来たってのに、この村には何もありませんね。良いところだって聞いたのに。僕の家族は嘘ばっかりつくんですよ、いつも。それでつまらないと思っていたらあなたが居た。それだけでこの村に来た甲斐が有ったってもんです」
嬉々として喋る男に、女は俯いたまま何も答えない。
やがて男は女の隣に腰を下ろすと、旅の荷物を無造作に地面に投げ出し、花束は丁重に脇に置いて、後は何をするでもなくそこに座っていた。男の鞄から甘く芳しい匂いが漂う。アルコールでも入っているのだろう。
やがて日が暮れて夜が辺りを黒く染めても女はそこに立っていて、男はそこに座っていた。
「……なにをしているんですか?」
木枯しのようなか細い声で、不意に女は男に聞いた。
「あなたに恋しているのです。恋は盲目、病は気から。アイムシックビコーズラヴユー」
間髪入れず答える男に、女が迷惑そうに言う。
「どこか別の場所に行ってくれませんか?」
大げさな仕種で頭を振ると、勢いよく立ち上がり男は女の手を握った。
「こんな寒空の中、か弱い貴方を残しては行けません。私に退いて欲しいなら一緒に宿屋に行きましょう」
「嫌です」
男の手を払いのけると、女はしかめ面をしながら衣服で手を拭った。
「ならせめて何でここに居るのかくらいは教えて下さい」
言葉に詰まった女は、また男から視線を逸らし、目の前に広がる闇を見つめる。
男はため息を一つ吐き呆れ顔でまた腰を下ろした。
「……人を待っているんです」
再び女の声が静寂を破ったのは、それから二刻ほど経ってからだった。
「どういうことです?」
興味深げに男が訪ねる。
「一度だけ、まだ戦争が酷くなかった頃、彼とこの神社を見に来たことがあったんです。七夕の日に」
ぽつりぽつりと絞り出すような微かな声に、男は黙って耳を傾けている。女の声が震えているのは寒さのせいだけではないだろう。
「戦争が酷くなって彼が……、戦争に行かなきゃいけないことが決まった日に約束したんです。来年もまた来ようって。……だから私、ずっと、ずっと楽しみにしてたのに。
戦争も終わりに近づいてて、安全だと思って列車に乗って。
そしたら線路が突然、戦闘機に爆破されて!そのせいで私がここに着いたのは、戦争が終わってからです。七夕から、……約束の日から数日後でした」
女はそれから何も言わなかった。男も何も言わなかった。
泥濘のような重たい夜が二人を包む。今度は男が静寂を破った。
「だからあなたはずっと待ってたんですね。彼が来るかもしれないと思って」
「……優しい人なんです。それにいつも遅刻する人でした。もしかしたら今でも私を待たせていることを気にしてるかもしれない」
女はそういって笑った。曼珠紗華のような綺麗で儚い笑みだった。
「……僕はここに来るまでに様々なところに立ち寄りました。そこでいろいろな人に出会いました」
唐突な身の上話に、女はいぶかしげに男を見た。
「少し前に出会った男の人からこの村の神社を見に行くことを勧められました。そこで伝言を頼まれました」
女は目を見開いて食い入るように男を見つめていた。男は優しげな、それでいて真摯な表情で話を続ける。
「もう待たなくて良いそうです。それからゴメンって。……女の人と一緒でした」
女は何も言わなかった。目を見開いて、呼吸をするのを忘れたかのようにじっとしていた。それからへなへなとその場に崩れ落ち、腕に顔を埋めて火がついたように泣き出した。
男はなにも言わずに、ただそこに座っていた。
それからしばらくの後、泣きはらした目と木枯しのような微かな声と曼珠紗華のよ
うな儚い笑顔で女は言った。
「……良かったです」
なにが良かったのか男は聞かなかった。代わりに別のことを聞いた。
「これからどうするんですか?」
「さあ、とりあえず家に帰ります。で、……忘れます」
女は勢いよく立ち上がると、いつの間にか出ていた太陽の光に目を細めた。
「それがいいでしょうね」
男も立ち上がると、女に言った。
「じゃあ二人で愛の逃避行といきましょう」
「嫌です」
女が鳥居から去る間際、ふと思い出したように男に言う。
「あなたって似てますね、あの人に」
「……」
「あの人が好きだったお酒の匂いがするところも、変に優しいところも、どことなく顔も」
「失礼な。一緒にしないで頂きたい」
「ありがとう」
やがて去っていく女の後姿が見えなくなると、男は深いため息を一つ吐き、鞄から酒瓶を一つ取り出した。それから地面に置いた花束を拾い、鳥居の根元に置いた。
酒瓶の口を緩めながら、少し中身が鞄の中にこぼれていたことを思い出して辟易した。
「まったく、困った兄貴だよ」
男は苦笑いしながら、蓋の空いた酒瓶を鳥居の根元に向かって勢いよく傾けた。

2013.