バージンロードは遥か彼方に

鬼島胤照



 私はどうしようもなく間違っていますし、それに気付いているつもりでもあります。
けれども、自分ではどうすることも出来ないのです。最近私はずっとずっと悩んでいます。自分が間違ったことばかりしでかす所為で。
 自らのあやまちを初めて知ったのはいつ頃だったでしょうか。
たしか、母に厭な顔をされた時だった筈です。母は――私を女手一人で育てくれた母は『正しさ』に重きを置く人でした。自らが『間違っている』と思ったものは決して許さず、その力強さが、弁護士としての母を支えていました。ゆえに私も物事を『正しい』と『間違い』に分ける価値観の持ち主として、成長したのでした。
 当時、私は十一の少女で、母と一緒に夜のテレビを見ていました。テレビでは恋愛の、とりわけ結婚の話題が取り上げられていた記憶があります。『幸せ』を糸にして作られたようなきらびやかな衣装を纏い、バージンロードを歩く花嫁の映像を見て、私はふと呟いたのです。
「私は結婚できないかもしれない」
 その言葉を聞いた瞬間母は、とても、とても、不愉快そうな表情をしました。先程まで機嫌よくテレビを見ていた母の豹変に私は母が急病に罹ったのではないかと考えてしまいました。
「どうしてそんなことを言うの?」
「何となく、そう思った」
「駄目よ、結婚なさい」
「どうして?」
 私に命令する母の口調は、明らかに攻撃的な響きを含んでいたのに、私は反抗に等しい質問を投げかけました。なぜならば、私にはその言いつけがとても不可思議なものに聞こえたのです。
「世間じゃ結婚することが常識でしょうが。そうよ、結婚して、幸せな家庭を築くことが一番の幸せなの……」
 母は苛立っていました。なのに、私が、会話を打ち切らなかった訳は、今でも思い出せません。
「でも、しなくったって特に問題は無いよね?」
「いつかいい男の人が見つかるわ」
「自信ないなぁ……」
「あなたはッ! 結婚が幸せじゃないと考えているんでしょう!」
 怒鳴りつけられた私は、自分がとんでもない失敗をしたことを悟り、母へ謝罪の言葉を投げつけて部屋に逃げ帰りました。
 母と父は私が生まれてからすぐ、離婚していました。殺人的に忙しかった母と、主夫だった父との間にどんな相克があったか私は知りません。子育てが引き金になったことは想像に難しくありませんが。
 誓って言えますが、母の古傷を抉るつもりはありませんでした。決して、十一の私は結婚に対して偏見を抱いているつもりなど無かったのです。ただ、結婚が母の中で義務となっていることが気になっただけなのです。けれど、その日以来、私は結婚や恋愛ついての話を母とすることはなくなりました。
 そして私は、結婚しないことや好きな男の人がいないことは、とにかく間違いなのだと、学習しました。
 それから、私は五つ歳をとりました。
 未だに好きな男の人はいません。できたこともありません。今も私は間違い続けているのです。
母はことあるごとに、やんわりと私に幸せな家庭をちらつかせます。孫の顔が見たいと願い、善き家庭を維持するための援助も惜しまないと言います。私にとって、それは途方もなく自分を消耗させる呪文でした。母が幸せになるのなら、結婚も悪くは無いと思うのですが、自分の中で築かれた関所のようなものが、その考えを許さないのでした。
とはいえ、そのことに関しては実のところ、大したことではないと言えます。いつか未来に好きな男の人と出会える可能性もありますから。
より大きくて差し迫った問題は別にあるのです。
 私は、女の人が好きになってしまったのです。



「あー! またぼけーってしてる!」
 眠いのかな? しっかりしろぉ! シオちゃんが私の頬をつねります。
 指先に込められた力はいたって緩やかなもので、目覚まし効果なんて欠片もないように感じられましたが、それでも私の意識は鮮明で敏感になります。
 シオちゃんの誰からも好かれる感じのいい顔が目の前にあるせいで、妙な汗が止まらなくなりそうです。そもそも、放課後の教室に二人きりだなんて、あまりにも刺激が強すぎるのではないでしょうか。シオちゃんに、授業の後教室で話したいと言われた私は、衝撃のあまり逃げ出しそうになった程です。こうして、一つの机を挟んで向かい合っているのも、相当心臓に負担をかけています。
「ごめんねシオちゃん。考え事していたの」
 考えていた内容はシオちゃんがどうしてこんなにも愛らしいのか、ということでした。
 ちいさくて、げんきいっぱいで、やわらかそうで、いいにおいがして、くりくりとした綺麗な目をしたシオちゃんは、小動物系とでもいうべき庇護欲をかきたてる女の子です。彼女こそ、私が好きになってしまったお友達なのです。これほどまでに可愛くて素敵な女の子であるならば性別を問わず誰であっても好きになるのではないかと思うのですが、一目見るだけで考えていることがシオちゃん一色になってしまうなんて、私には初めての経験で、どうしても戸惑いを隠せないのでした。
「まぁ、別に今までの話なんてどうでもいいから許したげるけどさッ! これからはキチンと聞いてよね?」
 私の頬から指を外して、シオちゃんは私に詰め寄りました。
 私はみっともなくどぎまぎして、どもりながらどうにか返事します。
「うん。分かった、よ」
――あのね、実はね。
如何にもな重大事を話そうするシオちゃんはうっすらと頬を染め、恥ずかしげに言葉を紡ぎだそうとしています。それは、もう、あやまちを犯すことさえ構わないと思えるほどに、愛しい仕草でした。
「私、好きな人がいるの!」
 その瞬間の私は、データ壊れて、かりかりかりかり音を立てるパソコンと同じでした。
突然降って湧いた好きな人は私を打ちのめし、落ち着きを奪い去りました。
なんということでしょうか。シオちゃんは、恋をしているのです。その人の事を思って、胸をざわめかせているのです。
一体、どいつなのでしょう? シオちゃんの好意を勝ち得たのは誰なのでしょう?
「え? 誰? そんな人いるの?」
「へへへ、恥ずかしいな……」
 私は期待していました。
 シオちゃんが、その長いまつげを一度伏せて、ゆっくりと考え込んだ後で、おもむろに私の瞳をのぞいて『あなただよ』と言うことを。
 そして、私は、やはり自分がシオちゃんに愛されたいのだと渇望していることを自覚して、おののきました。間違っていることなのに、妄想の中の囁きはキャラメルよりも甘ったるくて、私を酔わせてしまうのです。
「好きな人は……同じ部活の、古城先輩なんだ」
「そう」
 ある筈もない期待はあっさりと砕け散りました。心の中で、私は肩を落としました。元よりそんな都合のいい話があるなんてありえないのですが。
「ええ、と。どんな人なのかな? 古城先輩ってさ」
 シオちゃんは、うっとりと眼を潤ませました。古城先輩とやらに私が抱いた嫉妬はどれほどのものだったでしょう。
「すっごくカッコよくて頼りになって優しくて王子様みたいな先輩だよ」
「……古城」
 賞賛の言葉で埋め尽くされた説明を聞いて、私は古城先輩のヴィジョンを思い出しました。確か彼女は多くのファンがいるとかいうバレー部のスター選手だった筈です。一度、シオちゃんが、憧れの先輩だと言って撮った写真も見せてくれたことを私は思い出しました。黒のショートヘアが似合う、いかにも王子様とでも形容されそうな先輩だった覚えがあります。この学校は女子高ですから、『王子様達』はあちこちで祭り上げられているのです。
 たしかに古城先輩は(私には興味のないことですが)それは大層な美人だし、シオちゃんがよろめくのも仕方のないことに思えました。
 しかし、まさか、シオちゃんまで女の人を好きになるとは。彼女は恐ろしくないのでしょうか。女でありながら同性を愛してしまうことが。
間違えることが。
「それで、私にどうしてそんなことを教えてくれたの?」
「どうしたらいいのか相談したくって。今すぐ告白するべきなのか、それとももっと関係を深めてからの方が良いのか、とか。あなたって頭いいしね」
「とりあえず今の関係はどうなってるの?」
 シオちゃんの内心はちっとも読めませんでしたが、私は彼女に協力することに決めました。自分が彼女の中で『候補』に挙がっていないことへの悲しみは、まだ私を痛めつけていましたが、それでも、私は好きな人の助けになりたかったのです。
「まだ全然! 部活に入ってから一年ちょっとだし……先輩後輩って感じかなぁ」
「じゃあまずは仲良くならないとね? 話のきっかけにできそうなことは知らないの? 趣味とかさ」
「ううん……分かんないなぁ。そもそもあんまり口きいたことないんだよね、一応私もレギュラーなんだけど」
「……よく好きになったね?」
「カッコいいだけで好きになったんじゃないんだよ? 逢った瞬間、なんだかびびっときて、たまんない気持ちになって……それで……」
 吸っている空気が突如として、煙草の煙に変わったような気がします。あの紫色をしたもやは、いつも私の鼻やのどや胸をいらつかせて、耐え難いものを感じさせるのです。
 ちょっと話を聞いただけで(好きな人を貶したくはないけれど)シオちゃんがとても不誠実に古城先輩を好きになったのだということがはっきりとしました。私はひどく物悲しい気持ちになりました。シオちゃんは、きっと真剣なつもりなのでしょう。ですが、結局彼女はよく知らない相手を何となく好きになったかのように錯覚しているのです。相手を好きな自分が好きなのです。客観的に見てみれば、よく分かります。ですが、なによりも悲しかったことは、この事実が私自身にもあてはまるということでした。
 少なくとも私のシオちゃんを想う気持ちの方が、シオちゃんの古城先輩を想う気持ちよりも強いことは疑いようもありません。
しかし、それがなんだというのでしょう。
好きなだけなのです。あまりにも曖昧で、実体のない思いではありませんか。
私は本当にシオちゃんが好きなのでしょうか。ことによると母への恐怖と抵抗感が恋と言う名前に姿を変えているだけではないのでしょうか。
 母が頭の中に忍び込んでくるような錯覚があります。なんにでもマルとバツを、勝ちと負けを決めたがる母の、忌まわしい母の声が、私の喉から、嘔吐のようにこみ上げてきます。
 私は、硬い声で、シオちゃんに言い放ちました。
「それってさ、いわゆる、恋愛ごっこみたいなものなんじゃないの?」
 私の恋は違うと言えるのでしょうか?
「だってシオちゃんさ、相手のことちっとも知らないし。適当に、有名だからとかその程度の理由で好きになっただけなんだよ」
 私はシオちゃんを本当に知っているのでしょうか?
「どうせ卒業したら、きれいさっぱり先輩のことを忘れちゃうに決まってるよ」
 私は忘れないのでしょうか?
「女の子同士なんて間違ってる……結婚だって無理だし、子供も……」
 私は間違っていないのでしょうか?
「諦めなよシオちゃん」
 私の口は母のようによく動きました。自分がぶちまけていることは自分自身を否定する言葉でした。
 シオちゃんは悲しそうに私を見つめています。
 これで、いいのです。私は、シオちゃんに否定されたくてたまらなかったのです。シオちゃんが、『そうかやっぱり女同士なんて間違っているんだ』とさえ言ってくれれば、私は救われるのです。二つに引き裂かれるこの苦しみから解放されるのです。自由になって、男の人と結婚して、幸せな家庭を築くことが出来る筈なのです。それが正しいのですよね?
「どうしてそんなことを言うの?」
「私は、正しいことを言っただけだよ」
 そうでしょう? シオちゃん?
 そうでしょう? 母さん?
「でも、私は知ってるよ。あなただって女の子が好きなんでしょ?」
 水に垂らしたインクのように、世界が滲んでいく錯覚に私は襲われました。
「何を言って――」
「違うの?」
 私は何も言えませんでした。それは、肯定していることとおんなじでした。
 シオちゃんの両目から、涙が落ちてきました。
「ごめんね。あたし卑怯だった……。あなたが、私のことばっかり見てて、あなたがどういう人なのか分かっちゃったから、きっと私の相談も理解してくれるだろうって……ずるいこと、最低なこと、考えちゃったんだ……。私がそういう酷いことしてるのに気付いてたから、あんなこと言ったんでしょ……?」
 そんなことはありません。私はただ、この気持ちが間違っていると確認したかっただけなのです。なのに、シオちゃんはぐしゃぐしゃに泣いていて、私の欲しい答えをくれないままでいます。
 ああシオちゃんはなんて残酷なんでしょう。彼女は私が自分を好きだと知っていながら、いや、知っていたからこそ、私に相談してきたのです。私達は同じ場所に立っていました。母がいない場所で向き合っていました。
深い暗闇へ、私は引きずり込まれていきました。その虚無は、シオちゃんの告白を聞いた瞬間から空いていたのに、私は今の今まで気付いていなかったのです。いいえ、気付かないふりをしていた、と表現するべきでしょう。
 失恋したという自覚が、私を侵食して、内側から食い荒らしていくのを感じます。
 早く間違っていると決めつけてよ。狂ってると吐き捨ててよ。じゃなきゃ私は目を逸らせなくなる。自分が、苦しんでいる理由から。
「どうして古城のことは好きになるくせに私のことは好きにならないの?」
「ごめんね。本当に、ごめんなさい」
 気づけば私も泣いていました。声を抑えようとすればするほど嗚咽が止まらなくなって、呼吸が乱れて、ますますみっともなくカッコ悪く泣き叫ぶことになりました。
 赤ん坊のように泣きながら、私は、悟っていました。
 この苦しみは、正しくなれなかったことではなく、シオちゃんの愛を勝ち取れなかったことへの絶望から生まれています。
 誰かを好きになるということに正しいも間違いもないのだと。恋に落ちてしまえば、ただその思いが成就するかどうかの狭間で、右往左往するしかないのだと。
 男の人と結婚するという選択肢は、どこまで突き詰めても単なる選択肢に過ぎなかったのです。そうしたところで、得られるものは母にとっての正しさ、幸せだけだったのです。正しさも間違いも、自分の中にしかなかったのです。私と母の正しさは最初からまるっきり別の存在だったのです。
 私は母のもとを去らなければならないのでしょう。
いつの日か、また女の人に恋することになるでしょう。
それはもはやどうしようもないことなのです。
だって、私も、幸せになりたいのですから。

2013.5.18
『紫』第七号