誕生日は一か月後

晨暉悠翔

プロローグ

 いつものカフェで、いつものように。
 彼女は毅然とした表情で座っている。
 真っ直ぐと僕を見つめる瞳でさえ、いつものように、その透き通るような輝きを忘れてはいなかった。
「別に私は、強制するつもりなんてないの」
 テーブルの上のコップに手を伸ばす。
 手が震えるのを必死で抑えながら、ストローを口元まで運んだ。
ゴゴッと、音が鳴る。
さっきも鳴ったその音に、僕は驚き、彼女は眉を寄せた。
コップの中身はとっくの昔に無くなっている。
僕は慌ててコップをテーブルに置くと、飲み物が無くなるということがどうしてこんなに心細いものだろうか、と半ば本気で考えた。
僕は仕方なくそばにいたウエイトレスに、飲み物のおかわりを頼む。
「……やっぱり、コーラは体に良くないと思うわよ? 年相応とも思えないし」
「そ、そうかな」
 いつものやりとりのはずなのに、ちょっとしゃべっただけで口の中が乾いた。
彼女の透き通る瞳は、僕を捕えて逃がさない。
「……私はもう決めたから……」
 彼女の前にはアイスコーヒーが置いてあった。しかしながら僕と違って半分も減ってはいない。
 真夏の、とても暑い日だった。
カフェの店内は恐ろしいまでに冷房が効いていたのに、額から流れる汗は止まらない。
「いいんだよ、無理しなくて。まだ学生だもんね。私は就職している訳だし、問題ないから……」
 そう言って彼女は初めて僕から目線を逸らす。

 分かっていたんだ。

 目を伏せた彼女の表情が、悲しみであることを。

 一体僕に、何を言ってほしいのかも。

 分かっているのに……!

 一瞬、時が止まったかのような錯覚に捕らわれる。
世界に存在するのはただ僕一人で、周りは暗闇に包まれていた。
そんな孤独な世界の中で、僕の日常が崩れ去って行く音を聞いた。
その音は、事実を自覚すればするほど大きく耳障りで、
 僕にはとても耐えられなかったんだ。



 なんか、誘拐されている?

 車の後部座席に横たわって眠った振りを続けながら、状況把握を行った結果がそれであった。
 どうなってるんだ?
 頭がぼんやりとする。正直、眠ったふりをしながら本当にまた寝てしまいそうだった。
 車は滞りなく走り続ける。さっきから全く止まらないところをみると、高速にでも入っているのかもしれない。

「さっきから何やってんだ」
「彼女にメールですよー、野暮ですねー先輩」
「……お前に彼女なんかいたのか」

 前から男の声が二人分聞こえて来る。
 さて、どうしようか……
 ポケットを探ってみると、固い感触があった。よし、まだスマートフォンは盗られてないみたいだ。僕は右ポケットからスマホを取り出すと、体で隠して操作する。これで取り敢えず母さんに連絡すれば……
 目を瞑ったまま、後ろ手に操作する。しかしながら、ホームボタンを押した時点で僕の指の動きは早くも止まってしまう。
 ……タッチパネルじゃ、何を押したのか分からねぇ。
 画面見れなかったら、まずロックすら解除できないよ。
 運良くロックが外れたとしても、母さんの連絡先が電話帳のどのあたりを押せば出てくるかとか分からん。いや、まず電話帳のアイコンがどこにあるかも分からん。

「スマホってピンチのとき役に立たねぇな」

 一瞬の沈黙。
 前からくぐもった男の笑い声が聞こえて来る。
 さっきの発言は誰かだって? 僕だよ。しゃべっちゃった。
「おはよう。タケルくん。お目覚めはいかがですか?」
「……おはようございます」
 僕は潔く、犯人様に挨拶を返した。目を開けて体を起こす。
 眼前に飛び込んできたのは助手席から覗く仮面ライダーの顔だった。正確には仮面ライダーの覆面である。正義のヒーローの仮面を被って誘拐するとは、何とも悪趣味な犯人様だろう。
「君のスマホなんだけどね。もう充電切れてたから。どっち道使えなかったと思うよ」
 仮面ライダーの覆面は、必死で笑いを堪えながらそう言った。
 スマートフォンよ、どんだけ役に立たないんだ。
「……あのう、僕。今誘拐されているってことであってますか?」
「そうだね、だいたいそんなかんじ」
 仮面ライダーは曖昧に非情な事実を告げる。
「……誘拐する子、間違えてるんじゃないですか?」
「えっ。そんなはずないんだけどなー。だって君、添(そえ)島(じま)剛(たける)くんでしょ?」
「……そうですけど……」
「ほら、間違ってない!」
 仮面ライダーの、なんとも愉快そうな口調に僕は眉を寄せた。
「僕の家、お金持ちじゃないですよ? 身代金とか要求したって大したお金取れないと思いますけど……」
「いやいや、お金なんていらないから」
 仮面ライダーはそう言いながら右手をひらひらさせた。
 お金なんていらない? 一体どういうことだ?
「だって僕たちの目的は、我が快楽のために、平凡的、一般的、どこにでもいるような少年を虐殺することにあるんだから!」
 虐殺を終えたらね。少年を密林の奥のおーーくに埋めるのさ! 無差別殺人だよ、無差別殺人。と続けた仮面ライダーが、右から現れた手の平によってはたかれる。
「……ったいなぁ! 先輩」
「……変なこと吹き込むな。あと先輩と呼ぶなとあれだけ言っただろ」
「じゃあ、何て呼べばいいんですか? 包帯男? 透明人間?」
 僕は恐る恐る運転席を覗く。運転席には黒いニット帽をかぶり、顔を包帯でぐるぐる巻きにした男が座っていた。目元以外の素肌は見えず、やけに完成度が高かった。
 どうやらこの二人、僕に顔を見られないように変装しているらしい。包帯男が注意した「先輩と呼ぶな」ってのは、この二人の関係を僕に悟らせないためのものだろう。まあ、仮面ライダーのおかげで無駄に終わった訳だが。
「そんなのなんでもよかったんだよ……。ああもういい、先輩で」
「あざーっす」
 なんて緊張感のない会話なんだ……。これが「誘拐」という大犯罪をやってのけている犯人の会話なんだろうか。変装からしてふさげている。だいたい……
「なんで、変装しているんですか?」
「そりゃ、君に顔を見られないためだよ?」
「僕の目を塞いだ方が早くないですか?」
 一瞬の沈黙。
「それに、手も足も縛られてませんけどいいんですか?」
 仮面ライダーの覆面が膝を叩いて笑い出す。僕はその様子を訝しげに見つめた。
「そんな変な恰好で外に出たら、きっと誘拐じゃなくて不審者で逮捕されますよ」
「……確かにそうだな」
 包帯男の唸り声に、仮面ライダーの覆面が笑い過ぎで咳き込み始めた。
「……まさか、仮にも人質にアドバイスされるとは驚いたな。ねぇ先輩?」
 仮面ライダーの覆面は一頻り笑い終えるとそう言った。
「抜けてますねぇ、僕たち」
 言葉とは裏腹に、仮面ライダー覆面の口調には深刻味の欠片もなかった。
「だけど君も抜けてるよね。そんなアドバイスしてそれを僕たちが取り入れたらどうするつもりなんだい? 今から目隠し付けて、手足縛られちゃう?」
「えっ、そんなの困ります」
 仮面ライダー覆面の指摘に、ずいぶんと間の抜けた返事を返していた。
 言われてみれば、なぜ犯人を助けるようなこと提案しちゃってるんだろう。
いつもこうだ。冷静に状況を把握できているかと思ったら、妙なところでしくじる。テストで解答は完璧なのに名前書き忘れちゃうようなものじゃないか。
 ……実際、一回やったことあるけど。
「大丈夫だよ。そんなことしないから。ただし大人しくしといてくれよ? 暴れられてこの車が事故でも起こしたら君も困るだろ?」
 僕は無言で頷く。
「まあさ。目隠しも拘束もしなかったのは、君にあまり危害を与えたくなかったていう理由があるわけで。その点僕たちのこと信用してくれよ」
 何せ、大事な大事な商品だからね! と続けた仮面ライダーは、右から来た手の平によってはたかれる。
 デジャブだ。
「じゃあ、一体……あなたたちの目的は何なんですか?」
 痛い痛い、喚いていた仮面ライダーが、僕の問いかけに静かになる。
「そうだね……多分、これは僕たちの自己満足なんだ。わがままなんだよ」
「……この車はどこに向かっているんですか?」
「それは秘密」
 仮面ライダーが、なんだか覆面の中で笑っているような気がした。
「目的地に着くまでは、まだ時間がかかりそうなんだ。折角だからお兄さんとお話ししようよ。タケルくん」
「……なんでそんなことしないといけないんですか?」
 なんでこんな得体の知れない犯人とおしゃべりしないといけないんだ。どうでもいいけど、この仮面ライダーは「お兄さん」という年齢なのだろうか? まあ、確かに声は若いけど。
「まあいいじゃないか。話してる内にこっちがボロを出すかもしれないんだし。警察で有力な証言できるかもよ?」
 お話、付き合ってくれない?≠モいに女の人の声が頭に響く。あれ? なんだか、つい最近のできごとのような……
「君の名前は添島剛。歳は十三歳で中学二年生。学校指定の制服は今着ている通り真っ黒な学ラン。母親の年齢は三十八歳。あってる?」
「あってますけど……」
「なんでそんなこと知っているのかって顔してるね。まあさ、君のことは色々調べさせてもらったんだよ。あんまり気を悪くしないでくれ」
 それは無理のある相談だ。気味が悪くて仕方なかった。……それにしても、ここまで調べ尽くすとは本当に僕が誘拐の標的らしい。
「雑談でいいんだ」
 ちょっとした雑談でいいの
「今時の学生の実情に興味があってね」
 若い子と話してみたかったのよ
 彼女はそう言って笑った。
 ふいに、頭に響く声の正体に気付く。
 ああ、そうだ思い出した。僕は誘拐される前、あのお姉さんと話していたんだ。
 僕は窓の外を見た。スマホの充電も切れているから今が何時なのか分からない。けれど外は予想通り闇に包まれていた。
 そりゃそうだ。動物園に着いたときには六時を過ぎてたもん。
 僕は仮面ライダー覆面の質問に答えながら、誘拐される前に出会ったお姉さんのことを思い出していた……



 中学生というのは案外忙しい生き物である。
 一週間の大半は学校に通い、授業を受ける。部活動に勤しむ者は休日も返上して練習を行う。挙句の果てはピアノや空手、塾といった習い事。これじゃ気の休まる時なんてないだろうが、気の休まらないことが、気の休まらないなりに達成感につながるものらしく、皆あまり文句は言わない。言うとしたらテスト勉強がきついとかそんな話で、だいたいほどほどに幸せな顔をしている。
 だから、何が言いたいのかだって?
「なあ、今日ヒマか?」
「ごめん、今日は塾なんだ」
「俺は今日から合宿」
「親と出かけるんだ」
 つまりあれだ。割かしヒマな僕からすると、遊び相手が見つからなくて困るという話なのだ。
 友達は多い方でもないけれど、少ない方でもないと思う。けれど、友達と放課後遊ぶというのは実に珍しい話で、僕は一人でヒマを潰す術を模索しなければならなかった。

 エンドロールを眺めながら欠伸を噛み殺す。
 僕は残っていたポップコーンを口に投げ入れ席を立った。
 金曜日の夕方、平日の映画館は半分の席も埋まってはいない。
 エスカレーターで隣接するショッピングモールまで降りる、そのままアーケードを進んでいくと異様なものが目の前に現れる。
 動物園への入口。
 つくづく不思議な作りだと思う。もちろん動物園の入口は別にも存在する。この入口は正規の入口までだいぶ遠回りなところにあり、無理矢理設置したとしか思えない代物だ。
 まあ、僕個人としては便利だから文句どころか感謝に値する作りなわけだが。
 僕は係員に年間パスを見せ、中に入る。
これが僕のヒマ潰しだ。財布に余裕があれば、映画一本付きである。
 ぼんやりと入口近くにいる象を眺めながら、そう言えば母さんは動物園が嫌いなんだよなと、取り留めのないことを考える。その割によく連れて来てくれたけど……
「さて、いつものとこ行くか」
 僕は伸びをして、象に背を向ける。
 僕が動物園に来るのは、見てて飽きないやつがいるからだ。ぶっちゃけ、そいつのことが好きなのである。ファンと言ってもいい。最近では飼育員さんとも仲良くなって、素手で持たせてもらったこともあるくらいだ。
 僕は鼻歌混じりに動物園の奥に歩み出す。
「あのう、すいません」
 初め、自分が話しかけられているということに気が付かなかった。
 自分で言うのもなんだけど、制服で動物園を一人闊歩する姿はかなり異様なものがあるものだ。
 友達いないんだろうな、と毎回遠巻きに可哀そうな目で見られるのが落ちなのである。
 しかし今日はどうしたことだろう。
「写真、撮ってくれませんか?」
 そう言って微笑みかけたのは、なんと綺麗な、本当に綺麗な女の人だったのである。
 歳は二十歳後半だろうか。髪は肩くらいの長さで茶に染まっていた。首には緑のマフラーが巻かれ、体はベージュのトレンチコートに包まれている。長い脚と高い身長は、まるで本物のモデルさんのようだった。
 そして僕以上にこの古ぼけた動物園に不釣り合いな存在でもあった。
「あっ、はい」
 純朴な少年たる僕が赤面してしまったのは、仕方のないことではなかろうか。いいや、自然の摂理だと言ってもいい。
 僕が彼女の白いデジタルカメラを構えると、彼女はライオンの顔面がくりぬかれた、所謂「顔出し看板」から文字通り顔を覗かせた。
 それが本当に……年上の女の人に抱く感想としては失礼極まりなにのだが……可愛いらしかった。
「ありがとう」
「いえ……」
 僕は俯き気味にデジカメを返す。
「あなた、学生さん? 今日は一人なの?」
「はい、そうです」
「私もね……一人なの」
 彼女はそこで、神妙な表情で俯いた。
「ねぇ、よかったらそこのカフェでお茶しない?」
「えっ?」
 動物園の中に申し合わせ程度に存在するカフェを指差し、彼女は微笑みかけた。
「お姉さん、奢っちゃうわよ?」
「そんな、申し訳ないです」
「遠慮することなんてないわ……私ね、今日は誰かとお話ししたい気分なの。ねぇ、お話、付き合ってくれない?」
 そう言って首を斜めに傾げた彼女に、僕の胸のどぎまぎは止まらない。
「ちょっとした雑談でいいの。久しぶりに若い子と話してみたかったのよ」
 僕は彼女の妖艶でいて真っ直ぐな瞳に、いつの間にか無言で頷いていた。
 これがもし小太りで背の低い、禿げ頭の不細工なおじさんだったなら、僕は決してついていくことはなかっただろう。
 美貌というのは罪だ。「知らない人にはついていってはいけない」そんな簡単な戒めも守れなくなってしまうのだから。
「何が飲みたい?」
「……じゃあ、コーラでお願いします」
「あら、コーラ好きなの?」
「あっはい。毎日飲んでも飽きないくらいには好きです。母さんにはいつも健康に良くない≠チて怒られるんですけど……」
 彼女はそこで、クスクスと手を口に当てて笑い出した。
「どうかしたんですか?」
「……いいえ、ごめんなさい。私の知り合いにもコーラが大好きな人がいて、その人も同じようなこと言ってたなと思って」
 どこか嬉しそうな表情で彼女は弁明した。
 そしてウエイターを呼ぶと、先ほどの注文を告げる・
「動物園にはよく来るの?」
「……はい」
「へぇ。よっぽど動物が好きなんだね。将来の夢は飼育員さんとかかな?」
「将来のこととか、あまり考えたことないんで……よく分かりません」
「そっか。まだ中学生だもんね」
「お待たせ致しました」
 ウエイターがやってきて、僕らの前にコーラとコーヒーを置く。ウエイターは去り際に彼女に一瞥を加え、微かに頬を染めた。
 美貌とは何て罪なのだろう。
「そもそも動物園の飼育員は親に反対されそうなんで、無理だと思います」
「えっ、どうして?」
「母さん、動物園が嫌いなんですよ。わざわざお金払って入る意義を感じないって……」
 動物園での気だるげな母さんのことを僕は頭に思い浮かべる。
「うわあぁあ!!!!!」
 突然、男の叫び声と同時に、何かガラスのようなものが割れる音がした。
 背後から聞こえた音に僕は思わず振り向く。
 床にはガラスの破片のようなものが散らばり、濃い緑色の液体が水たまりを作っていた。
「お客様大丈夫ですか?!」
 先ほどのウエイターが、その惨状の元に駆け出す。
「すいません、手が滑ってしまって……」
 背広姿の長身の男が、慌てて割れたコップの破片を拾う。
「メロンソーダ台無しだよ。好きなのになぁ、メロンソーダ」
 男は自分がコップを落としてしまったにも関わらず、どこか不満気に呟く。
「僕がどれだけメロンソーダが好きなのか分かりますか? そして今の僕の悲しみがどれだけのものか、分かってくれますか! ねぇウエイターさん、ぜひ! ぜひ聞いてやってください!」
「へっ?」
 雑巾でメロンソーダの水たまりの始末をしていた生真面目そうなウエイターは、素っ頓狂な声を出す羽目になる。
 ……世の中には変な人がいるものだ。
 背広の男は、集めたコップの破面をゴミ箱に押し入れると、ウエイターと肩を組んで、奥の席に移動して行った。
「なんだったんですかね……」
「本当に、変な人ね」
 彼女は嘆息混じりにそう呟く。
「ええっと、何の話だったっけ? ……確か、お母さんが動物園を嫌いだって話だったかな?」
「はい」
 僕はストローでコーラを飲みながら肯定する。
「動物園を嫌いになる理由ってあんまり思いつかないけどな……獣臭いとかそんなことかしら?」
「ニートの生態を見ているようなものじゃないか≠チて言うんです」
 一瞬、彼女は僕が何を言ったのか理解できなかったのか、沈黙が生まれる。
「ええっと、ニートって……あの、働かずに家に引きこもっちゃう人のことよね」
 僕はストローに口を付けたまま頷く。コーラの炭酸が舌の上で弾けた。
「もしも動物園に人≠ニいう展示スペースがあったらどう思います?」
「率直に、斬新なアイデアだと思うわ」
 その光景を想像しているのか、彼女は目を宙に泳がせた。
「展示されている人は、ガラスケースの狭い空間から一歩も外に出られない。けれど最低限の生活が営めるように、お世話してくれる飼育員がいるんです。一切働くことなく衣食住に不自由しない。これって正にニートでしょ?」
「……確かに」
「母さんは動物園にいる動物は、その動物種の中で最も底辺の役立たずの集合体なんだって言うんです。狩りといった野生の苦労を知らない体たらくで、その上現状に不満を抱くこともなく、ただ日常が過ぎ去っていくのを良しとしている存在だって」
「……あんまりな言いようね」
 彼女は苦笑いを浮かべる。
「やっぱり、ニートの生態見るためにお金は払いたくないですよね」
「……なんだかユニークな発想のお母さんなのね」
「よく言われます」
「そうなると、なんで息子の君が動物園に通っているのか気になるわ」
 僕はコップをテーブルの上に置いたままストローに口を付けていたので、自然と彼女を見るとき上目遣いになる。
「ダメですか?」
「ううん、だめじゃないけど、何でかな?って思って」
「……気にいってる動物がいるんです」
「へぇ、ニートなのに?」
 彼女はどこか可笑しそうに笑いながら、皮肉を言う。
「言ってるのは母さんですよ? 僕はあんまり気にしてないです。だいたいニートじゃない野生の動物なんて簡単に見れるものじゃないし」
「ふーん。それもそうだね。じゃあその気にいってる動物って何なのかな?」
 僕はそこでストローから口を離し、背筋を伸ばす。
「……誰にも分かってもらえないんで言いません。むしろ当ててみてください」
「けっこういじわるなんだね」
 彼女はコーヒーを飲みながら困ったように微笑んだ。
「……ライオン?」
「違います」
「じゃあトラかな? ……それともレッサーパンダとかカワイイ動物?」
「そんなメジャーどころが好きだったら誰だって当てられてますよ」
「それもそうだね」
 最初にライオンを挙げた時点でこの人は本気で当てる気がないのだろうと思った。
窓の外はすでに闇に包まれている。今日はその「お気に入りの動物」には会えそうになかった。
 無意識に大きな欠伸を一つする。
「でも学校帰りに動物園に寄るなんて、よっぽどその動物は魅力的なんだろうね。学校では部活とかしてないの?」
「部活には所属してますけど、いつも活動している部活ではないんで結構ヒマなんです。……今日もヒマだったから映画観て、動物園に来た訳で……」
「えっ、やっぱり映画好きなの?」
 やっぱり?
 目を丸くする彼女を眺めながら、その妙な言い回しはなんだろうかと考える。
 ……まるで僕のことを前から知っているような言い方だ。
 親戚にこんな綺麗なお姉さんいたかな? こんな綺麗な人、一度会ったら忘れないだろうに。
 僕って映画好きっぽい顔でもしてるのかな……
 そう言えば、どこぞの日本の監督に顔が似ていると言われたことはあるような。
「映画はそんなに好きじゃないです」
「えっ、でも今日も観て来たんでしょ?」
「……なんていうか、映画は動物園とセットみたいなもので……」
 彼女の顔に疑問符が浮かんでいるのが分かる。
「えっと……。多分映画が好きなのは母さんなんです。昔からよく映画を観に連れて行かれて……その後動物園に行くのが休日のお決まりのコースになっていて……。だから映画もあるとしっくりするっていうか……部活の先輩にも映画をいっぱい観るように言われていて、動物園行くならおまけで映画も観ておこうぐらいのノリなんで」
「部活って映画研究会とか……ではないのよね?」
「演劇部です」
 彼女は先程よりも大きく目を開き、ゆっくりと口元を綻ばせた。
「へぇ、そうなんだ」
「でも、文化祭前しか忙しくならないんで、基本ヒマなんです」
「そうか、演劇部か、きっとモテるんでしょうね」
「? なんでですか?」
 演劇部はみんなモテるってことか? ……それなら部長があんな「彼女欲しい! 彼女欲しい!」なんて連呼しないと思うけど……
「だって君、かっこいいもの」
 僕は思わず頬を染める。そして心の中で即座に首を振った。いけない、いけない、お世辞に踊らされては。これだから美人は罪深いんだ。
「でも不思議ね。演劇部に入って、たくさん映画も観てきたのに映画が好きじゃない≠ネんて。むしろ演劇部に入部した理由が映画が好きだから≠ュらいでもいいと思うんだけど」
「……多分それは母さんのせいだと思います」
 言いながら僕はまた欠伸をしていた。なぜだか無性に眠たい。毎日十時には寝ているが、いくらなんでも今日は早すぎた。知らない内に疲れていたんだろうか?
「僕が六歳くらいの頃から映画館には連れて行ってくれたんですけど……最初に観せた映画なんだったと思います? 戦争映画ですよ、戦争映画! 子供の僕には退屈で退屈で仕方なくて……。今思うと幼い僕の映画での退屈を紛らわすために、動物園にも連れて行ってくれていたのかもしれません。そんなまどろっこしいことするくらいだったら最初から子供向けの……例えば戦隊ものの映画とかトンネル入ったら親を豚にされて風呂屋で働く話とか、そんなの観せてくれたらよかったのに。いつも何を観るかは、母さんが決めて譲ってくれなかったんですよ! だから、映画が面白いものだとは思えなくなっちゃって……」
「だいぶ不満が溜まってるんだね」
 僕は彼女の苦笑いを見つめながら、ストローでコーラを飲み干す。
 飲み干す寸前でゴゴっと大きな音がなった。
「ねぇ、お母さんは他にどんな映画に連れて行ってくれたの?」
 彼女はそこで初めて僕から目線を逸らした。コーヒーはまだ残っているのか、カップの中身をスプーンでぐるぐると掻き混ぜている。
「戦争映画の次は……確かラブストーリーでした。その次は歴史上の偉人の半生だかなんだかで。次がSFもので……設定が難しくて全然内容が分からなかったんですけど。とにかくジャンルに全くの統一感がないんです。正直母さんが……何を基準に……映画を選んで……いたの……か分かり……ませんでし……」
 僕はそこで頭で船を漕いでいた。意識がうつらうつらし始める。
「……ううん。お母さんにはちゃんと、君とその映画を観る意味があったんだよ」
 そう言った彼女の顔……僕の意識が眠りにつく前に見た最後の彼女の表情は、どこか悲しげなものだった。
「添島剛くん」
 そして彼女は最後に、名乗らなかったはずの僕の名前を違うことなく呼んだのだ。



「へぇ、演劇部かぁ。そりゃ傑作だ。きっとモテるんだろうな、タケルくんは」
 仮面ライダーが、あのお姉さんと同じようなことを言う。
 ……どこいらへんが傑作なのか理解不能だが……
「あのう……質問したいんですけどいいですか?」
「いいよいいよ。君の疑問を聞くだけならいくらだって聞いてあげる。僕が答えるかどうかは別問題だけどね! だって僕、犯人なわけだし」
 相変わらず、犯人としての威厳がまるで感じられない調子で仮面ライダーがのたまう。
「もしかして……もしかしてですけど……動物園で会ったあのお姉さんって、あなたたちの仲間ですか?」
 あの時の異常な眠気。目覚めたときにはもう誘拐されていたこと。そして彼女が僕の名前を知っていたこと……。
 たまたま眠っていた僕を誘拐した訳ではなく、僕を眠らせてしまうことも彼らの計画なのだとしたら……
「ああ。今気付いたの? そうだよ。彼女には君に睡眠薬を飲んでもらう手助けをしてもらったのでした」
 仮面ライダーによってあっけからんと告げられる真実。
 なんだろう……このどうしようもなく裏切られた気持ちは……
 あーお姉さんに話しかけられて頬を染めたあの時の自分を殴りてぇ
 これだから美人は罪深いんだ。
「にしても先輩、あの子にいくらギャラ支払ったんですか? 僕より割高だって聞いたんですけど本当ですか?」
「……うるさいな。お前は面白半分に首突っ込んできたんだろ。そんな不真面目なやつにまともに払う金なんてない」
「えぇ。まさかノーギャラなんですか、これ」
 大げさな調子で驚く仮面ライダー。表情は見えないのに、愉快気なのがなぜだか伝わってくる。
 車は暗闇の中をなおも走り続け、いつの間にか高速道路を降りていた。
「もうすぐ着くよ」
「……密林の奥の奥ですか?」
「ハハ、いやいや、もっともっといいところさ」
 密林の奥の奥がいいところ≠ニは思えなかったが、それを言うとまたうるさそうなのでやめておく。いいかげん、仮面ライダーがどういうタイプの人間なのか分かった気がした。
 信号が赤になって車がその場に停車する。これで信号に捕まったのは三度目。これといって拘束されていない僕は扉を開けて、無理矢理でも逃亡することもできたはずだが、もうそんな気も起らなくなっていた。
 なんだかいいかげん、仮面ライダーと包帯男が犯人≠ニいうかんじがしなくなっていた。きっと、ただの変な恰好の変態だ。
 ……十分同じ空間にいたくない類の人間ではあるけれど。
「よし! そこの角を左に曲れば目的地だ! タケル君、よかったね、間に合った!」
 車は仮面ライダーが言ったとおり左に曲がる。目的地と言われても窓の外は闇の中で、周りに何があるのか全く分からなかった。
 車は唐突に後退し始めると、その場に停車する。
「さて。外に出ようか」
「……一体ここはどこなんですか?」
「出れば分かるって」
 そりゃそうだけど……。僕は訝しげに仮面ライダーと包帯男を交互に見る。
「あっ、もしかしてこのままの恰好で出たら僕たちが警察に捕まるかもって心配してくれてる? いやーなんて優しいんだ。でも大丈夫! こんな朝にお巡りさんに出くわすことはまずないから。そもそも一般人でもこんな早起きなのはお年寄り以外いないだろうしね!」
「むしろ警察にさっさと捕まってほしいんですけど。……早く家に帰りたいです」
 僕は不満気に呟きながらも言われたとおり外に出る。
 さっきの仮面ライダーの発言から、どうやら今は朝らしいことが分かった。
「っクシュン!」
 車を降りた途端、正面から冷たい風が吹き抜け思わずクシャミが出た。風はやけに強く、制服の中は着込んでいるとはいえ、この寒空の下ではとても耐えられそうにない。
 僕が寒さに打ち震えていると、唐突に背後から肩を叩かれる。
「うわあ!」
 振り返ると、包帯男の顔がすぐそばにあって驚く。
「……これを……」
 そう言って包帯男が徐に差し出したものは、先ほどまで包帯男が来ていた黒いジャンパーだった。
「……ありがとうございます」
「おい、飲み物買ってくるから、先に行っててくれ」
「じゃあ僕、メロンソーダでお願いします!」
「……メロンソーダなんて自販機で見たことないぞ?」
 包帯男は仮面ライダーの、おふざけとしか思えない注文に律儀に返答すると、どこかに走って行った。走った先に自販機があるのかもしれない。包帯を顔面に巻いた男が走り去る姿は実にシュールだった。
「さてタケルくん、行こうか」
 そう言って仮面ライダーは包帯男とは反対方向に進む。ついていく義理もないはずなのだが、自然と僕は仮面ライダーの後を追った。
 もうとことん、この変人たちに付き合うことにしよう。
 しばらく進んでいくと、コンクリートだった地面が砂浜に変わる。
 聞き慣れないざわめきが耳まで届く。
「海……ですか?」
「そうだよ!」
 呆気からんと仮面ライダーは告げると、適当な場所に座り込んだ。今まで顔しか見えなかったので分からなかったのだが、この男、服装はスーツだった。スーツに仮面ライダーの覆面という、笑いを取るにしても悪趣味な恰好である。
「タケルくんも座りなよ」
「……制服に砂がつきませんか?」
「そんな先輩みたいなこと言わなくていいから、、、さっ!」
 仮面ライダーが僕の左足を思いっきり持ち上げる。僕は悲鳴も上げられぬまま背中から呆気なく素っ転んだ。
 見上げた空は真っ暗闇で所々、星が瞬く。
「全身汚れちゃえば関係ないだろ?」
「……」
 僕は無言で上体を起こし、抗議の視線で仮面ライダーを睨み付けた。

「さてさて、ここで問題です。僕は一体誰でしょう?」

「えっ?」
 仮面ライダーの発言に、僕は眉間に皺を寄せる。
「そんなの分かるわけ……」
「ヒントは、実を言うと僕はメロンソーダがあまり好きじゃありません」
 そう言って彼はニコッと笑った。覆面から顔の下半分を覗かせながら。
「いやー覆面付け続けるのってタケルくんは知らないだろうけど、つらいものなんだよ。特に呼吸が」
 彼は僕の前で「生き返るー」と言いながら大げさに何度か深呼吸してみせた。
「それで、僕が誰か分かった?」
 僕は再度そう訊かれて押し黙る。なんとなく引っかかりを覚えるのだが、うまくそれを説明できないのだ。
「あれだよ。タケルくんが会ったお姉さんはタケルくんに睡眠薬を盛ったって言っただろう? あれさ。一人でできると思うかい?」
 彼はなおも中途半端に覆面を脱いで笑いかける。
「良く思い出してみてよ。だって君たちはテーブルを挟んで向き合っていたんだ。あのお姉さんが睡眠薬を飲み物に入れるヒマなんて普通あるはずがないだろ? 誰かさんが派手にコップを落としたりしない限りね」
 言いながら彼は仮面ライダーの覆面を脱ぎさる。
「……今になって僕に正体を明かしたのは、もう警察に捕まる覚悟ができているからですか?」
「いいや。僕の役目が終わったからだよ」
「あのう……もったいぶって覆面取ってもらったところ悪いんですけど、顔見ても正直ピンときません。カフェでメロンソーダ落とした人で合ってますか?」
「正解だけど、正直過ぎて傷ついたよ」
 そう言って笑った男の人は、確かにあのカフェにいた変な人≠セった。
 短い黒髪に、痩せた体。やんちゃ坊主のような茶目っ気ある顔は、きっと彼を、本来の年齢よりも若く見せていることだろう。
「役目って何なんですか? 僕を誘拐することだって言うなら迷惑極まりないんですけど」
「僕の役目は簡単に言えば見張りかな」
 彼は砂浜に手をついて空を見上げる。彼の表情には先ほどまでの笑みは消えていた。
「僕のですか?」
「いいや……先輩の方だよ」
 彼はそう言うと勢いよく立ち上がる。案の定スーツのお尻は砂まみれで、彼はそれを手で払った。
「じゃあ、僕はこれで帰るから」
「えっ」
「僕が居ても邪魔なだけだからね。……先輩はさ、タケルくんといっぱい話がしたいはずなんだ。でもあの人、臆病でね。車の中では仕方なく僕から根掘り葉掘り訊かせてもらったよ」
 僕は何がなんだか分からなくて、彼の顔を見上げていた。
「ああ、僕を逮捕するっていうならこれあげる」
 彼は一枚の紙きれを僕に手渡す。
「それ僕の連絡先だし、嘘偽り一つないから。警察に突き出すっていうなら、どうぞご利用ください」
 彼はそこで柔和に微笑む。
「だからさ。もう少しだけ先輩に付き合ってやってくれ」
 そして本当に彼は海に背を向け、僕と対峙する。
「きっと、タケルくんとは友達になれると思うんだ! だからさ、できたらその連絡先は友達の証にしてほしいな。もしも先輩に会いたいって思ったら連絡してよ。多分先輩、連絡先なんて渡さないだろうけど、タケルくんにだって自己決定権ってものがあっていいと思うからね」
「……なんで僕があの包帯男に会いたいと思うんですか?」
 彼はそこでスーツのポケットに手を突っ込む。
「思わないかもしれない。でも念のためにね」
 ―――なんだろう。彼の笑みの奥底には、今まで感じたふざけた印象とは全く違ったものがあった。
 どこか達観した大人≠フ眼差し。
僕はもしかすると、この人のことを何も分かっていなかったのかもしれない。
「じゃあ、また会う日まで!」
 彼は楽しげにそう言うと何のためらいなく、元来た道を駆けていく。
 茫然と、僕は彼の走り去る姿を眺めていたが、次第にそれは霞み、夜の闇に取り込まれてしまった、
 僕はただ一人、闇の中に取り残される。

一人でも大丈夫よね
 今よりずっと子供だった僕は顔を上げ、いつも頷いていた。
 休日出勤の母さんはそんな僕の様子を見て優しく頭を撫でる。
 それは聞き分けの良い僕へのご褒美だったのか、不安そうな僕を安心させるためのものだったのか、よく分からなかった。
 僕はよく、一人で留守番をした。
 そんな日は決まって録りためておいたアニメを見た。それはオンエア時にも観たもので、僕は先の展開も敵の黒幕が誰かも知っていた。
 アニメを見ながらお絵描きしていたこともある。オモチャで遊んで部屋を散らかしたら、母さんにこっぴどく怒られたこともあった。テレビを点けっぱなしにして、いつの間にか寝てしまったことなんて日常茶飯事だった。
 僕はアニメを見続けた。いいかげん飽きたら、適当にテレビでやっていた番組を見た。面白くなくても見続けた。
 この感情の正体を僕は知らなかった。
 一人でいるときに訪れるこの気持ちの名前を僕は知らなかった。
 別に苦しい≠ニは思わなかった。悲しくて悲しくて泣きたくなる訳でもなかった。
 だってこの感情はやり過ごすことができたから。
 もう慣れてしまっていたから……

 首に熱い何かが触れて、僕は驚いて振り向いた。
 薄らと明るくなり始めた空を遮ったのは、真っ白な包帯を巻いた球体だった。
「コーヒー、飲めるか?」
 包帯男はそう言って缶コーヒーを僕に差し出す。
 僕は黙ってそれを受け取ると、冷え切った両手を温めた。
「……アイツはどこ行った?」
「帰っちゃいましたよ」
「帰った?!!?!!」
 包帯男は素っ頓狂な声を出し、次の瞬間には溜息をついた。
「なんて自由なやつなんだ……」
 そう呟くと包帯男は口元まで包帯を取る。そして小脇に抱えていたペットボトルを取り出すと、片手でキャップを開けて飲み始めた。脇にはもう一つペットボトルと車を降りたときには持っていなかった大きな白い箱が抱えられている。
「……メロンソーダありましたか?」
「いいや……なかったから俺と一緒のコーラにしといたんだがな……」
「コーラ!?!!」
 僕はまじまじと包帯男のペットボトルを眺める。
「……僕もコーラが良かったです」
「……体に悪いからダメだ」
 ……誘拐犯に体の心配されたんだが、どうすればいい。
「砂浜に座ったら制服が汚れるんじゃないのか?」
「僕もそう思います」
 包帯男がじゃあ何で座っているんだとでも言いたげな視線を送って来る。僕はそれを無視して仕方なく缶コーヒーのプルタブを開けた。口に入れたコーヒーは思ったよりも苦くて、少しだけ顔を顰める。
 包帯男は車の中同様、必要以上にしゃべろうとはしなかった。
 夜は次第に明け始め、赤焼けが水平線を燃やす。
「……なあ、一日っていつから始まると思う?」
 唐突に包帯男は呟いた。
「一日は午前零時に始まると思うか?」
 僕は隣に立つ包帯男を見た。……いいや、もう包帯男ではなくなっているのかもしれない。だって彼はコーラを飲んだ瞬間から解いた包帯を戻そうとはしなかったのだから。
 海から風が吹いて、僕の前髪を揺らす。朝日は自分の存在を誇示するのかのように爛々と、僕の横顔と包帯男の顔を照らした。
「一日は……今日という日は今始まったんだと……そうは思わないか?」
「どうしたんですか? ……なんかセリフが寒いですよ」
「ハハッ、それもそうだな。俺はつくづく映画の観すぎなんだろう」
 包帯男はそこで初めて笑ってみせた。
「どうしてアイツがいなくなった時点で逃げなかったんだ?」
もう少しだけ先輩に付き合ってやってくれ
「……なんとなく……です」
「そうか……」
 僕は視線を前方に戻す。太陽が海を照らしてキラキラと光っていた。
「なあ……君に一つ訊きたいことがあるんだ」
 包帯男はそう呟くと、また押し黙る。その態度は、中途半端に包帯を取った姿のように何かを躊躇っているみたいだった。

「君はさ。君は……今まで幸せだったか?」

 幸せ。
 母さんの優しい笑顔を思い出した。
 しあわせ。
 一人で留守番しているときの、止むことのないテレビの音を思い出した。
 シアワセ。
 学校の友人や、演劇部の部長のことを思い出していた。

「……誘拐犯にそんなこと訊かれるとは思いませんでした」
 僕はそう言ってちょっと笑っていた。
「幸せだと思います。少なくとも、自分が不幸だなんて思ったことはないです」

 初めからなかったものを、欲しいとは思わなかったから。
「そうか……」
 太陽は昇り切っていて、空は清々しいまでの青色をしていた。
 今日はきっと晴れになるだろう。
「……やっぱり、君を誘拐したのは間違いだったんだな」
 包帯男はそう呟く。一部しか表情は見えなかったが、なんだか悲しそうに見えた。
「……僕じゃなくても誘拐しちゃだめですよ」
 僕はそんな包帯男を睨み付ける。全くこんな訳の分からない奴、母さんがここにいたら……

「タケル! タケル! どこにいるの?」

 最初、幻聴なのかと思った。だって車で一晩中移動していたんだ。ここに母さんがいるはずがない。いるはずないのに!

「タケル!!」
 僕は声のする方を振り向いた。そこには……決して見間違えようのない自分の母親の姿があった。
「母さん!」
 母さんは息を大きく吸いながら肩を上下させ、僕のことを見つめていた。
 そして僕と目が合うと、砂浜をハイヒールで駆け出す。
 僕は次の瞬間には抱きしめられていた。……こんな風に抱きしめられたのは小学生以来だ。
 嬉しいけれど、なんだかすごく恥ずかしかい……
「よかった、変なことはされないだろうとは思っていたけど……」
「えっ?」
 母さんは、そう呟くと、名残惜しそうに僕から離れる。
 そして……突っ立ったままの包帯男に対峙した。
「人の子を誘拐するなんて犯罪よ。逮捕されたって文句は言えないんだからね」
「そうだね……俺は君に逮捕されちゃうのかな」
 母さんは早足で包帯男のそばまで近づく。
 そして、母さんは思いっきり包帯男の腹を蹴り飛ばした。
 包帯男が、一メートル後方に飛んで倒れると、呻き声を上げる
 僕は目の前で何が起きているのか分からなくて、茫然とただただ突っ立ていた。
 ここは頬をひっぱたくとか、その程度にしておけばいいのに。
 母さんは本気だ。あれだけ強い母さんが本気だ。
「……色々と私たちのこと調べたみたいね」
「ああ。……驚いたよ。会社やめて警察官になっているとは思わなかった。思えば昔から正義感が強くて、実際強かったもんな」
「……そこまで分かっていてタケルを誘拐したのは私に殺されてもいいってことかしら?」
 母さんがコキコキと両手の骨を鳴らし始める。
「そうでもしなけりゃ、タケルと……会せてくれなかったろう?」
 母さんが包帯男の頬をグーで殴り飛ばす。……包帯男の頬には一瞬にして青痣ができた。半分だけ巻かれていた包帯は、均衡を崩して解けていく。
「当たり前でしょ? そしてあなたにタケルを呼び捨てにする資格なんかないわ」
「母さん……やりすぎだよ。僕、別にひどい目とかにあってないから」
 これじゃどっちが犯罪者か分からなくなってしまう。
 包帯男はフラフラとした足取りで立ち上がる。いや、もうその男の包帯は全て解けていたから、包帯男ではなくなっていた。
 右頬に青痣を作った男の顔は、やけに清潔感に溢れる、現実味の薄い整った顔していた。まるでテレビに出てくる俳優のような……
 あれ? 待てよ。この顔どこかで……
「だいたい息子は誘拐した、心配するな≠チてバカな犯行声明出さないでくれる? 映画の観すぎなのよ。それとも作り過ぎかしら。さっさと海外かどこかに行ってしまえばいいんだわ」
「どうしてもタケル……くんに会いたかったんだ。……そして君に謝りたかった」
 彼は強い眼差しを母さんに向ける。

「あのとき逃げてごめん」

「怖かったんだ。あの時は僕には何もなくて、将来君たちと生きていける自信がなかった。……ただあの時の……一心不乱に映画という夢を追い続ける日常を失いたくなかった。僕は……どうしようもなく弱かったんだ」
「今は、強くなったとでも言いたいの?」
 母さんの声はとても冷たいものだった。
「成功したから……あなたに余裕ができたから……私たちに会いに来たんじゃないの?」
 母さんは俯く。背後から眺めている僕には、母さんがどんな表情をしているのか分からなかった。

「それってあまりに都合が良すぎるんじゃない?」

 母さんはそう言い残すと、また足早に彼から離れていく。
「タケル、帰るわよ」
「えっ」
 僕は母さんに強く手を引っ張られる。
「待ってくれ!」
 叫び声を上げた男を母さんは容赦なく睨み付けた。
「これを! これをタケルくんに渡したかったんだ。だって今日は、今日はタケルくんの誕生日なんだろ?」
 男は白い箱を拾い上げて、懸命に掲げる。
「違うわよ」
 刃のような冷え切った声が、男の喉元を捕えた。
「タケルの誕生日は一か月後よ! あなたは数を一つ間違えたんだわ。昔からぬけているところがあったものね。つまりはそういうことよ。あなたにとってタケルはその程度の存在なのよ」
 母さんの言葉は、彼の喉元を掻き切った。彼はその場にへたり込む。
「行くわよ、タケル」
 母さんは駐車場の方へと歩き出す。へたり込んだ彼を振り返ろうとはしなかった。
 僕も母さんの背を追う。

 会いたいと、思ったことはなかった。
 それは初めからなかったもので、僕の人生には必要ないものだった。
 きっと、これから先もそうなるだろうと、そう思っていた。

 僕はその場に立ち止まる。
 気付くと、制服の上に着ていた黒のジャンパーを強く握りしめていた。



「あの男の人って、最近話題になっている長田修一郎だよね。監督の」
「そうよ」
 母さんは一言だけそう呟いた。
 その冷たい声色に後部座席に座る僕は、その先の質問を続けることができなかった。
 あれが、僕の父親なのか≠ニ。

 母さんは、シングルマザーだ。一人で僕を産んで、一人で僕を育てた。十三年間ずっとずっと一人で。
 その孤独はきっと僕のようにはやり過ごせなかっただろう。
 誰も救ってはくれなかっただろう。
 
 今まで一度だって父さんの話はしなかったし、訊いたこともなかった。
 知る必要なんてなかったから……

 僕は徐に白い箱を取り出す。
 あの黒いジャンパーを返したとき、僕はあの箱を……一か月後の誕生日プレゼントをもらっておいたのだ。
 ゆっくりと、誕生日プレゼントにしては素っ気ない白い箱を開ける。
 中にはコウモリのぬいぐるみが入っていた。

君変わっているよね
そうですか? でもほら、近くで見ると案外カワイイ顔しているじゃないですか!
……まあ、そうかもしれないけどさ

 飼育員さんの、あの苦笑いを思い出す。
 どういうことだろう。僕が動物園にコウモリを観に行っていることまで調べたんだろうか。そんな些細なことを?
 それとも……
 僕は母さんの運転する姿を一瞥する。
 母さんでさえ当てることのできなかった僕の好きな動物を、あの人は当てて見せたとでも言うのだろうか?
 可能性としてはどう考えても前者の方が高いと思う。
 けれど、もしも後者だとしたら……
先輩に会いたいって思ったら連絡してよ
 僕はポケットから取り出した紙切れを手の平で弄んだ。
 ……僕は果たして、あの人に会いたいと思うときが来るんだろうか……
 あの人は僕に幸せかどうか訊いてきた。
 きっと自分のせいで僕が不幸な人生を歩んでいるのではないかと、自責の念ってものに駆られて質問してきたのだろう。
 僕は幸せだ。少なくとも不幸だなんて思ったことはない。
 その答えは今も昔も、この先だって変わることはないと思う。
 でも、もしもあの人が僕たちの人生に参入したとして、それが単純な足し算じゃないにしろ、今までの幸せにプラスアルファをもたらしてくれるなら……

 それはちょっと素敵なことのように思えた。

 だって僕は知っているから。
 母さんの目が今赤いことを。
 泣いている姿を見られたくなくて、僕があの人から白い箱を貰っているのを止められなかったことを。
 それを見逃していたことを。

 母さんは素直じゃないってことを、知っているから。

―――

エピローグ

 添島剛少年がテーブルに突っ伏したのを確認して、私は長い息を吐いた。これで私の役目は終わりだ。
 カップに残ったコーヒーを飲み干す。それは私の心境を表すかのごとくほろ苦いものだった。
「いやー流石、うちの看板役者は違うね。見事な演技だよ」
 奥のテーブルから現れた男、同僚の木(き)龍(りゅう)暎(えい)二(じ)が乾いた拍手を私に送った。
「ところで、このウエイター君にサインしてくれないか? 君に一目ぼれしたらしくってさ」
「やめてくだい! 何言ってるんですか!」
 後ろから現れたウエイターが、赤い顔をして木龍に抗議する。
「まあまあ、手伝ってもらう訳だし、お礼ぐらいさせてもらわないと」
「手伝ってもらう?」
 私は訝しげに木龍を見つめる。
「いやさ。このウエイター君物分りのいい子でさ。僕たちの事情話したら手伝ってくれるって言ってくれて……ほら中学二年生とはいえタケルくん思った以上にでかいじゃん? 僕一人で車まで運ぶのは大変かなーって思ってさ」
「運ぶのを手伝ってもらうと」
「そゆこと」
 木龍はそう言いながら、自分のカバンから色紙とサインペンを取り出す。どうやら私と行動をともにするときは常備しているらしい。
 私は溜息混じりにいつものサインを書いた。この男は私のサインをずいぶんと都合よく使ってくれるものだ。
「はいどうぞ、ウエイター君」
 私のサインを木龍は得意げな顔でウエイターに渡す。
「あ、ありがとうございます! ……あの裏に持って行ってもいいですか、その後手伝いますから!」
「うんうん、いいよ、全然」
 ウエイターはなんとも嬉しそうな顔をして、厨房の方に消えて行った。
「あのウエイター君、まだ高校生らしいよ? 少年たちを誑かすとは罪な女だねぇ」
「……いつも不思議なんだけど。私のサインなんてもらってなんで嬉しいのかしら。大して有名でもないのに……」
「まだ≠セろ? 君がどれほど有力株かってこと僕が熱弁しておいたから大丈夫だって」
「そんな有名になる保証なんて……」

「いやいや君は僕たちの劇団を辞めて飛び立って行くんだから、大丈夫だって」

 私は木龍の発言に体を硬直させ、目を見開いた。
「……どうして……」
「あれ、僕が知ってるのがそんなに不思議かい? 有名プロダクションに誘われてるんだろ? いやー君をテレビで見る日もそう遠くないって訳だ」
 私はしばし絶句した。
「実はプロダクションの方に友達がいてね、その子から聞いたんだよ」
「……友達ね。ずいぶんと友好関係の広いことで。変人のくせに、あなたのコミュニケーション能力には舌を巻くわ」
「変人は余計だな」
 木龍は愉快そうに笑う。
「で、あのウエイター君にはなんて事情を説明したの?」
「もちろん、ありのままだよ」
「そう……」
 この男のことだ、良いように嘘を並べた立てたのだろう。
「それよりさ、タケルくんといろいろ話したんだろ。どんな話が聞けた?」
「……あなたには教えないわ」
 木龍はあからさまに不満げな顔をすると、添島剛の隣に座る。
「ケチなやつだな。僕だってタケルくんには興味あるのに」
 そんなことを言いながら、木龍は突如として添島剛のズボンのポケットを弄り始めた。
「何やってるの! 起きたらどうするのよ!」
 私は思わず、小声で木龍のことを注意した。
「大丈夫だよ、睡眠薬で眠った人間が、そうそう起きることはないんだから……よしあった」
 そう言って木龍の取り出したのは今時流行のスマートフォンだった。
 木龍は躊躇いなく、いくつかのボタンを押すと、照明に画面を翳した。
「何がしたいのよ」
「いや、一人前にロックなんてかけてるからさ、画面の指紋見て、暗証番号を推測しているところ」
「だから、スマホ開いて何がしたいのよ!」
「この子のお母さんの連絡先調べとこうと思って」
「えっ」
「丁度いいところで連絡しようと思ってさ」
「丁度いいところって……電話なんかしたら長田監督にバレわよ」
「誰が電話するって言ったんだよ、メールだよ。め・い・る」
「メールでも内容訊かれたらどうするの?」
「彼女に送ってるとでも言うさ」
 私は木龍のふてぶてしさに嘆息を吐く。
「どうしてそんなことするの?」
「……先輩はさ、やっと息子に会う勇気が持てた。それはきっと進展なんだと思う。だけどさ、ちゃんとこの子の母親にも会っとかないと意味がないと思うんだ。逃げっぱなしじゃだめなんだよ」
 おっロック開いた。ラッキー
 そんな木龍の呟きを私はどこか遠くで聞いていた。
 木龍は長田監督が、添島家の一員になることを望んでいるのだ。あるいはタケル君の母親に許されることを……
 私は……
木龍は自分のスマホにタケル君の母親のメールアドレスを記録する。
「なあなあ、それより聞いてくれよ。先輩さ。息子に渡す誕生日プレゼントに何買ったと思う? 僕には全然理解できなかったんだけど……」
「お待たせしました!」
 またしゃべりだしたところで、丁度あのウエイター君がやってきた。
「おっと。話が途中になっちゃたけど、ウエイター君も来たし、そろそろ行かなきゃかな」
 そう言うと、木龍はタケル君の脇を持ち、ウエイター君には両足を持つよう指示を出す。
「……うまくいくといいわね」
「ああ、そうだな」
 木龍はそこで無邪気な顔で笑う。

「お前はそれを望んでいないんだろうけどな」

「じゃあな」
 木龍は最後にそう言い残して、タケル君も持ち上げるとこの小さなカフェを去って行った。
「相変わらずね」
 一人ぼっちのカフェの席で、私は小さく苦笑いを零す。
「何もかもお見通しってわけか」


君はありのままの君を出せばいいんだ

 長田監督と出会ったのは、私が初めて出演した映画での事である。
 その頃の長田監督はまだ監督ではなく、その映画では演技指導を担当していた。
私の役はヒロインの友人役。脇役中の脇役で、セリフも台本の一ページにも満たない量しかないものだった。
『あなたは悪くないわ』
『元気をだして』
『きっと大丈夫よ!』
 彼氏に冷たくされ、悩むヒロインを励ます言葉。
 劇団でも言ったことのある、よくあるセリフだった。
 けれど……

「君は映画をなめてるのか?」

 私の演技を見て、そのときの監督の第一声はそれだった。
「セリフはただ言えばいいってものじゃないんだ。君はそんなことも教わっていないのかい?」
 溜息混じりに告げられる鋭い言葉、収録を長引かせる私に浴びせられる共演者からの冷たい視線。
「もういい! このシーンはまた今度だ!」
 監督は最後にはそう吐き捨てていた。
 監督の言葉通りに、消えていくスタッフと共演者たち。
 セットに取り残された私は、呼吸することさえ忘れてしまいそうだった。
 涙が溢れ出て、声を殺し、歯を食いしばって泣いた。
 これで私の役者生命は終わったのだと、そう思った。

『そろそろ宿舎に戻らないかい?』

 両肩にそっと手を置かれ、囁かれた声に私は驚いて顔上げた。
「あ、いやさ、女の子が泣くところをずっと見てるような趣味ないんだよ。ただこういうときは思いっきり泣いた方が気も晴れるかと思って」
 背後から覗いた、気弱そうな……しかし妙に整った顔を見て、私は不覚にもドキっとさせられた。
 ―こんなイケメンの俳優さんいたっけ?―
 ―ナンパかな…… あれ、でもヤバイ。この人の名前が思い出せないよ。名前忘れましたなんて言ったらまた怒られるかな……―
 若かった私はそんなことを考えながら、上目遣いに、私より背の高い彼を見つめていた。
 彼こそが、長田監督だった。
「あれ、もしかして僕のこと分からない? 一応撮影前に自己紹介したんだけどな。
 演技指導の長田修一郎です。よろしく」
 長田監督はそう言って微笑んだ。私はその屈託ない笑みに思わず頬を染めていた。
 その顔で優しいなんてずるい。
「演技指導って……私よりもっと大事な役柄の人に演技を指導する人ってことですよね」
 私はエキストラみたいなものだ。撮影前に監督からちょっとイメージを言われる程度で、特別に演技指導なんかされる立場じゃない。
「いやいやホントは君たちみたいな……ちょっと言い方は悪いけど、ちょい役の人も僕がちゃんと指導しなきゃいけないんだけど……別の役のこと考えていたら手が回らなくて、ごめんね」
 その口ぶりから、エキストラへの指導は義務ではないのだろうと思った。
「お説教ですよね」
 私は、そう言って口を引き結ぶ。演技指導の人がわざわざ声をかけに来たのだ。怒られるに決まっている。
「なんでだい?」
 長田監督は、その時本当に不思議そうな顔をした。
「だって、私。こんなに共演者の方々に迷惑をかけて……演技、下手くそで……」

「いいや! 何言ってるんだ! 君の演技は素晴らしかったよ」

「えっ」
「僕は君の演技を観て感動したんだ! いや新たな発見をさせてもらったと言ってもいい。僕は今まで、あんな演技の仕方を知らなかったよ」
 私は怒りが込み上げてきて拳を握りしめる。
「私のことバカにしに来たんですか? あんな演技……監督の言う通りセリフに全然気持ちがこもっていません!」

「全てのセリフに気持ちを込める必要なんかあるのかい?」

 長田監督は、またあの微笑みを浮かべる。
「彼氏との恋路で悩むヒロインに友人である君がヒロインを励まそうとするセリフ。ヒロインは果たして、真面目に友人の言葉を聞いているだろうか? 友達に相談して、励まされることなんてヒロインにとっては言ってしまえば当然じゃないかい? ヒロインは当然の言葉を聞いて心地よい気持ちなりたいだけだった。そんなヒロインにとっては友人の励ましの言葉に気持ちが入っていようがなかろうが関係ないだろう。むしろ、心の奥底ではお前にこの気持ちが分かるわけない≠ュらいに思っているかもしれない。友人の方にも心から気持ちを込められない事情があった。きっとこの友人には彼氏がいないんだろう。ヒロインのことを心から同情することなんかできなかったんだ。妬ましくもあったのかもしれない」
 長田監督が歩きながら捲し立てた解釈に、私は惚けてしまった。
「ちょっと嫌な女だけど、こっちの方が案外リアルだよ。君の演技を観て僕はそう思った」
「私、別にそんなこと考えてやったわけじゃ……」
「考えて演技することは確かに大切なことだ。でも考えてばかりの演技も良くないと僕は思っている。この演技はきっと君の内側から、経験から出てきたものだと思うんだ。だからさ。
 君はありのままの君を出せばいいんだ」
 俯いて狭くなった視界が、すっと広くなったような気がした。
 気付くと私はまた泣いていた。
 声を上げるでもなく、ただ目からポロポロと涙が落ちていった。
「あれ。また泣かせるつもりじゃなかったんだけどな」
 長田監督は所在なさげに頬を掻く。
「と、取り敢えずそこに自販機あるからコーラでも飲む? おいしいよ。あれほど素敵な飲料はないね。僕なんて毎日飲んでも飽きないから」
 長田監督の励ましの言葉は、どこかズレていて可笑しかった。

 次の日、私はどうにかして監督のOKをもらい、撮影を終えた。
 帰り際、お礼を言おうと探したが、長田監督はどこにもいなかった。
 その訳を知ったのは、それから一か月も後だ。

「長田修一郎と話してたんだ」
 私の初映画での顛末を聞いて、木龍はそう呟いた。
 木龍もその映画にはエキストラとして出ていたが、この話はまだしていなかったのだ。
「先輩も相変わらずキザなことするねーー」
「先輩?」
 劇団の控室で、私はお菓子を食べる手を止める。
「そうそう大学の演劇部の先輩なんだ。昔からそんなかんじだったよ。天然たらしで……まあ、あの頃はしっかりした彼女さんがいたから、女子と豪遊してた訳じゃないけど」
「豪遊って」
「……もちろん、女子に遊ばれてなかったっていう意味ね」
 ひどい言いようだな……

「じゃあ、先輩が演技指導下ろされたのは、お前が原因だったんだな」

「えっ、それってどういう意味!?」
 驚く私をよそに木龍はお菓子に手を伸ばす。
「先輩、二日目であの映画下ろされたんだ。多分監督にお前のこと直談判しにいったんだと思う。あの演技は完璧だ≠ニか言ってさ。先輩も頑固だから、監督と揉めたんだろ」
「そんな……」
 ―まさかそこまでしてくれていたなんて……。ていうか、このままじゃ私が長田さんの演出家生命を終わらせたことになるんじゃ―
 木龍は私の不安そうな表情を見て、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「先輩はさ。良いと思ったことは何でも素直に取り入れられる人なんだ。それが映画界の重鎮だろうが、演技初心者だろうがね。ああいう柔軟な人はきっと大成するんだろうね」
「どうしよう! 私のせいでそんな人が演出家やめることになってたら」
 私は今にも泣き出しそうな顔で立ち上がった。……いてもたってもいられなくなったのだ。
「確かに今は干されちゃってるかもね。あの監督、知る人ぞ知る有名人だから」
 木龍はそう言いながら、のんびりとお菓子を口に咥える。
「だったら……どうにかしないと……」
 あんなにお世話になったんだ。それに……なんとなくだけど……あの人は、映画界に必要な人だと思うから……。
「お前に何ができるんだよ」
 当然のように木龍は言う。
「でも!……」
「まあ落ち着け。……ここで一つクイズを出すとしよう。僕たちの劇団は今ちょっとした危機に陥っている。さて、それはなぜでしょう?」
「……来月いっぱいで演出家の方が辞めるからでしょ。この劇団を立ち上げてくださった……」
 最近の劇団内の話題は専ら、今後の劇団の運営をどうするか、ではないか。……若輩者の私たちは蚊帳の外だけど……
「もう一問、僕は先輩の連絡先を知っているでしょうか?」
「えっ」
 私は木龍のいわんとすることが分かり、目を見張る。
「……善は急げとも言うし、団長にこのこと話してくるよ」
 木龍は徐に立ち上がると、控室の出口に向かう。
「そんなに、うまくいくの?」
「……こういうの得意だから」
 木龍は出口に背を向け振り返る。
「大丈夫。僕も、先輩のことは好きだからさ」
 木龍はその時、いつも通りあのいたずらっぽい笑みを浮かべていた。


「あっ。えっと今日からお世話になります。演出家の長田修一郎です。劇の演出はド素人ですが、一生懸命がんばらせてもらいます」
 前で頼りなさげにペコペコ頭を下げる長田監督に、私は他の劇団員同様、拍手を送る。
 ―一体どうやって団長を説き伏せたんだろう……―
 私は横目で木龍のことを見た。長田監督はもちろんこの頃さほど有名な人物ではなかった。普通、後任の演出家は団長や、劇団の古株の知り合いから選ばれる。
 木龍はそれをねじ伏せてみせたのだ。
 私が横目で見た木龍は、いつも通り笑顔だった。
 私はその頃まで木龍のことを、お調子者の変人で、人より少し周りが見えているくらいにしか思っていなかった。
 ―不気味だな―
 ―木龍暎二の本質は、私の思っていたのとはもっと違うところにあるのかもしれない―

「あれ。君ってもしかしてあの時の?」

 その声で前を向いて、私はドキッとさせられた。……長田監督の顔が目の前にまで接近していたのだ。ドキドキして頬が赤くなる。
「ああ、ごめん。今日コンタクトも眼鏡も忘れちゃってさ」
 そう言って長田監督は頭を掻いて少し遠ざかった。
「あの。あの時は本当にありがとうございました」
「監督からOKもらえたんだってね。本当によかったよ」
「……きっと長田さんが説得してくださったおかげだと思います。私のせいで辞めさせられて……申し訳ないです」
「いやいや僕が説得した訳じゃないよ。あの映画下ろされたのも別の理由だし。君が気にする必要なんかないよ」
 長田監督はそう言って優しく微笑む。
 若い私にでも、これは嘘だと分かった。長田監督はあまり嘘がうまくないのだ。
 居たたまれなくてなって俯く私の頬に、冷たい物が触れる。
「これコーラなんだけど、実は嫌いだったりするのかな?」
 また見上げると、長田監督は困ったように笑っていた。
「……好きですよ」
 私は、長田監督の手とコーラの缶を同時にぎゅっと握りしめる。
 あの映画撮影のあった夜から。
 私は、あなたのことが忘れられなくて……

「相変わらずのコーラですか? 僕丁度喉が渇いてたんです。気が利きますね。先輩」

 躊躇いなく私と長田監督の間に割って入った木龍は、事もなげにコーラの缶をかすめ取る。
「暎二。お前な……」
 長田監督は木龍を見て、呆れたように溜息をつく。
「お前、今度は何を企んでるんだ?」
「何も企んじゃいませんよ。先輩と一緒に仕事がしたいだけです。人聞きの悪いこと言わないでくださいよ」
「……まったく」
 長田監督はそこでまた溜息をついて、肩を落とす。
「……じゃあ二人とも、また後で、稽古のときに」
 そう言って長田監督は控室に去って行った。
「好きになっちゃだめだぜ」
 隣でプルタブを開ける音がする。
「好きなんかじゃ……」
「あの人、結構だめ男だから。……前、彼女の話しただろ? その人に子供ができてさ。先輩はその人のこと捨てた」
 私は信じられない思いで木龍のことを見た。
「先輩は、そのことからまだ逃げてるんだ」
 その時の木龍の眼差しは―気のせいだったかもしれないけれど―どこか愁いを帯びたものに見えた。


息子に誕生日プレゼントを渡したいんだ……。あいつにばれないようにするから、犯罪スレスレのことをすることになる。……それでも協力してくれるんだったら……手伝ってくれないか?
 長田監督から、おずおずとこの「息子誘拐計画」を切り出されたとき、私は二つ返事で承諾した。

 木龍に長田監督が孕ませた彼女を捨てたことを初めて聞いたときは、木龍の性質の悪い冗談なのだろうと思っていた。
 あんな気弱そうな長田監督が、そんなひどいことできるようにはとても思えなかったからだ。

長田さんに告白したら断られちゃった
えっ
 役者仲間の世間話に、私は露骨に驚く。私たちは鏡越しに目が合った。彼女はこの劇団の中でも一、二を争う美人だ。
なんでも今は、映画製作に集中したいらしいわ。劇の演出もやっているから彼女を作る時間なんてないんですって
へぇ。そうなんだ……
成功しないと顔向けできない人がいるんですって。自分はひどいことをしてしまったから。ちゃんと成功して謝りたいって
 女がいた方がいい映画も撮れると思うんだけどね、と彼女は不満気に舞台用の化粧を続けた。

 その後も美貌の演出家は幾人もの女に交際を申し込まれたが、誰の申し入れも聞き入れることはなかった。

 もしかすると木龍が言ったことは……いや、きっと真実なのだろうと、その時気付いた。そして長田監督は……

 私は知りたかった。
 長田監督の息子さんがどんな子なのか。
 そして、そのお母さんがどんな人なのか。
 直接会って確かめてみたかった。

 カフェを出ると、空は真っ暗で動物園は閉館間際だった。
 風が吹いて身震いする。
―まったく、日の出見るからって海に行ったら寒いだろうに、相変わらず私たちの監督は演出にこだわり過ぎる―
 私はトレンチコートのポケットに手を突っ込む。
ねぇ、お母さんは他にどんな映画に連れて行ってくれたの?
 タケル少年が最初に見せられた映画が「戦争映画」だと言ったとき、私は一つの可能性を考えた。
 それは私が観た映画と同じなんじゃないかと。
 そう。その後にタケル少年が答えたラブストーリーも時代劇もSF作品も全部、確実に私は観たことがあった。
 だってその作品は全部、長田修一郎作品だったから。
 私の一番好きな監督の作品だったから―――

「あーあ。十三年間相思相愛じゃ。敵いっこないよ」
 夜の動物園を歩きながら、私は溜息を落とす。
「好きだったのになー」
 あの初映画の夜から、ずっと……
 動物たちはもう寝静まってしまったのか、夜の動物園はすでに静寂で包まれている。
 私はどうやらこの物語でヒロインにはなれなかったらしい。
 長田監督とタケルくんのお母さんは、うまくやっていくのだろう。
 すぐには無理でも……きっと。
『きっと大丈夫だよ。監督』
 そう思わず呟いたセリフに果たして私の気持ちは入っているのか。自分でも分からなかった。


 これは脇役の物語。
 スクリーンに収まりきらなかったエピローグ。

2013.