田村金魚店

あかみ

二月中ごろのある日だった。新京極通のはずれにあった小さな店で、小さなカメの置物を買った。手のひらの上に収まる、プラスチック製の小さなものだ。外敵の気配を感じて、頭を甲羅に引っ込めようとしているような姿勢をしている。鋭い爪や、くりくりした瞳まで精巧に作りこまれていた。きゅっとすぼまった鼻先が愛らしい。まるで本当に生きているみたい。500円玉一枚と交換するのには充分すぎる対価だった。
 ささやかな戦利品を握りしめて私は鴨川の河川敷を北上していた。左手をちらりと見やると、名前の通り川の中州に鴨が集まって、じっと日光浴をしているのが見える。私もそびえる街路樹が日光を遮る度に、顔をマフラーに深く埋めていた。立春を過ぎたとはいえ、まだまだ冬の支配下から逃れられないことを実感する。部屋の炬燵にこもって冬眠していたい。ときどき部活かサークルか、半袖短ズボン姿でランニングをしている人たちを見ると、感心するよりぞっとしてしまうような日だった。どうやったらあんなことが出来るのだろう。そりゃあ走り始めたら体は温かくなるのだろうけれど。走り始める前に半袖半ズボンになるのだろうか。その瞬間凍えてしまう。走りながら少しずつ脱ぐのだろうか。手袋、マフラー、帽子、コート……というように。脱いだ衣服は誰がどうするんだ。室内から少しずつ体をほぐしておいて、えいやっと外に飛び出るのだろうか。立ち止まってしまったら汗に体温を奪われて風邪をひいてしまうから、スタート地点に戻るまでずっと走り続けるのだろうか。なんてハイリスクなんだろう。そんなことをぼんやり考えていたら、足元のタイルのでっぱりに躓いた。
 あっと思ったときにはもう遅く、私は道路に倒れ込んだ。べた、という音が実感を伴って耳に届く。寒さのせいで感覚を失っていた手足の神経が急に目覚め、痛みを伝達し始める。痛い痛い痛い痛い痛い痛いよ。ひりひりとした叫びは脳をかけずり回り、私は声も出せなかった。しばらくして、体が正常な感覚に戻ると同時に、手から消えた違和感に気付いた。転んだ拍子に、カメの置物をどこかにやってしまったらしい。
 まだ痛む腰と足を気遣いながら、路上の忌まわしきタイルの隙間や植え込みの中を覗くが見当たらない。はっと目線が、すぐ横で半開きになっていた店の扉を捉えた。古びた木製の分厚い扉が、冷たい風に吹かれて揺れていた。屋根に取り付けられた看板には「田村金魚店」とある。扉は私が転んだ地点から三歩圏内にあった。この中に転がり込んでいても不思議ではない。それに、店だったなら好都合だ。店内の商品を見て回る振りをしながらカメを探して、そして見つかったら店を出ればいい。どれだけ長居しようと、ひやかし客にしか思われない。金魚店ではカメの置物なんて扱ってないだろうから、万引きを疑われることもない。よし。私はそっと決意して、半開きだった扉をゆっくり引き開けた。
 店内は薄暗かった。天井に白熱灯の頼りない灯りがあるのみ。足音が妙にざらつくと思ったら、床は打ちっぱなしのコンクリートだった。歩くたび靴底が粗目の紙やすりで削られるようで、私はあまり好きではない。
人が両手を広げられるくらいの通路が10メートルほど続き、突きあたりに机がある。机の上には年季の入った電気スタンドと、レジと思しきものと、歴史の遺物になりつつある金魚鉢がぼんやりと光を反射していた。透明なガラスの球体で、上部がひらひらと開いているものである。中身はここからではよく確認できない。目視できる範囲にあるもの、通路の左右の壁を天井までびっしり覆い尽くしているもの。それは本棚と、それに一杯に詰め込まれた本であった。文庫本、絵本、和綴じの本、写真集。背表紙の高さはばらばらで、整理されている様子はない。とにかく店内はありとあらゆる印刷物で埋め尽くされていた。金魚店らしいところは、机の上に置かれた金魚鉢くらいだろうか。それを除けばここはただの寂れた古本屋である。
もしかして店主は金魚が好きで、捻った名前を狙って、「金魚店」としたのかもしれない。ただまどろっこしいだけだけれど。
 なんにせよ、私の目的は探し物、落したカメの置物を見つけることだ。田村金魚店の命名の謎など私にとってはどうでもよい。幸い店の中にはお客はおろか、この店の名付け親かもしれない店主も姿が見えない。探し物をするのにはうってつけの環境だ。さっさと見つけて、人に見つかる前に退散しよう。
私は本棚の下の暗がりに目を走らせた。ふと、視界の端で動く小さな黒い影を見つける。もしかして、ゴキブリ。
「ぎゃあ」
 脊髄反射で叫び声が出た。こだまするように、店の奥からも悲鳴が聞こえた。「ぎゃあ」低い声だった。私はそれにまた驚いて、もう一度叫んだ。「ぎゃあ!」
 通路の奥に目を凝らすと、机の向こう側から老人が頭を覗かせていた。誰もいないと思っていたが、今まで机の陰に隠れていただったらしい。
「ふ、不審者!」
 老人はぶるぶる震えながら私を指差した。
「違います! 私は、虫に驚いて、叫んだだけです。そこに虫が!」
「そんなわけがあるか! この店に虫などいるわけがない!」
 私はもう一度物陰を見た。そこにはまだ黒い影がある。腰を下ろし、恐る恐る顔を近づけてみると、それは床に転がったカメの置物だった。動いたように見えたのは錯覚だったらしい。
「あれ……?」
「ほれ、違っただろう」
 老人は得意げに胸を反らしてから、大あくびをした。眠りを妨害されたことへの不満をぶつくさ述べた後、気がついたように訊く。「客か?」私はいいかげん離れた相手に大声で話すのに疲れて、老人の方に向かった。探し物は見つかったけれど、ここまで大騒ぎしてはいさよなら、というわけにはいくまい。なにもやましいところはないのだから、わざわざ不審者として通報されなくてもいいだろう。
「すみません、客ではないんです。落した物がこの店に転がりこんでしまって……」
 老人は丸い眼鏡をかけていて、暗い色の格子柄の着物を纏っていた。60歳は超えているだろうか。禿げた頭に白いひげを蓄えている。赤いコートを着せて、髭をもう少し付け足せばサンタクロースに見えるかもしれない。歩くたびカコンカコンと足音がする。下駄を履いているらしい。
「怒鳴ってすまなかった。驚かせてしまった。いやはや、この店に人が来るなんて滅多にないことだ。探し物は見つかったのだろうか?」
「はい」
 カメの置物を見せようと、拳を開く。カメは手のひらからぴょんと飛び降りた。爪が皮膚を引っ掻く感覚がじわりと伝わった。机の上に無事着地したカメは、甲羅から首を伸ばして確かにこちらを見た。
「ぎゃあ!」
 カメは私たちの驚きにも関せず、机の上を無邪気に歩き回っている。私はこっそり、カメは動きが意外に早いことを学んだ。
「やめろ、そいつを本に近付けるな、入ってしまう!」
 入ってしまう? 老人の注意も空しく、カメは机に広げてあった一冊の絵本に迷いなく歩み寄っていった。慌てて私も手を伸ばすも、届かない。カメは本の表紙の厚紙を踏み越え、ページの中にことんと落ちた。
「なんてことだ! なんてことだ!」
 老人は一時取り戻した平静をまたどこかへ投げやって、頭を抱えた。本を取り上げ、背表紙を叩き始める。カラフルな絵が描かれたページが捲れた。
「ちょっと、本が傷つきますよ。どうしたんですか」
「なんてことだ。これを駄目にされたら大損だ」
「どういうことですか」
 本をいくら叩いても、何か(おそらくカメ)が出てこないことが分かると、老人は力なく椅子に倒れ込んだ。キイ、と椅子が軋む悲しい音だけが店内に響き、沈黙が落ちた。
「お嬢さん、きみのせいだ。きみがカメなんかこの店に持ち込んだから、本が駄目になってしまった」
「カメって。私が落したのはカメの置物ですよ」
「置物だって生き物だ。この店の中は、寺社や川や森と同じで、そういう境界があやふやなんだから。気を付けてもらわなくちゃ困る」
「そんなことを言われましても……」
 手のひらにはまだカメが動いていた感覚が残っていた。甲羅を引きずるようにして一心に歩く姿もはっきりと覚えている。甲羅と机がぶつかるかたっ、かたっという音がいまにも本の中から聞こえてきそうだ。
「これの中に入るのは簡単なんだ。これには運とちょっとの相性だけが要る。難しいのは取りだすことなんだよ、お嬢さん。中に入った奴はもう生き物だ。自分で考え、自分で動ける。私には分かる、きっとあのカメは出てきやしない。本の中には餌がいっぱい用意してあるんだ。喰い尽くすまで出てくるはずがない」
 老人はすぐ横にあった本棚から無造作に一冊の文庫本を取り出した。表面の埃を払い、金魚鉢の上に掲げ、ぽんと叩いた。行間から赤い金魚がぴょこんと飛びだし、金魚鉢の水に滑り込んだ。老人が電気スタンドを点ける。橙色の灯りの中でまじまじと見つめても、水中で身を躍らせている金魚は生きているようにしか見えなかった。私たちに見せつけるように水の中を旋回して、尾びれがガラスの内側を擦った。
「魔法みたい」
「大事なのは場所と気運だ。誰にだってできる」
「私でも?」
「やってみるがいい」
 また別の一冊の本が差し出された。これはタイトルに見覚えがあった。去年に読んだのだった。ストーリーまでおぼろげに思い出せる。たしか、主人公の少年が川で釣りあげた一匹の鮒をずっと育てる話だった。読んでいて田舎の祖母の家を思い出して涙腺が緩んだ記憶がある。
 改めて本棚を見直すと、背表紙に書かれたタイトルには「魚」や「金魚」、また「川」や「海」などのキーワードが多いことに気付く。関係のないタイトルのものでも、話の中には魚が登場するのであろうと容易に想像が付く。青や紺色の表紙が多いのもそのためだろう。
 雑に扱うのは躊躇われて、受け取った本の表紙をそっと押し出すように撫でる。予想通り一匹の地味な鮒が落ちてきた。
「出た!」
老人は今度は本のページをすっと鮒に近付けた。けれども、横から泳いできた金魚が飛び跳ね、そのままページに吸い込まれていった。老人はちっと舌打ちして、その本を私に手渡した。受け取り、読み始める。
主人公は東京の一等地に住んでいて、神経質な母にしつけられ、中学受験に向かって勉強していた。主人公が精神をすり減らす生活の中で街中で見つけた店の、一匹の金魚に惹かれるところまで読んで顔を上げる。
一ページ目から違和感がある。鮒がどこにも出てこない。その上私の読んだときは、物語の舞台は淡路島の田舎で、主人公はそこで毎日釣りや虫とりに明け暮れていたはずなのに。今渡された本は、タイトルや表紙は変わっていないのに、内容は全く違う。
「あれ、おかしい。こんな話じゃなかったはずなのに」
 老人は得意げだ。
「こうやって混ぜた本を作ったり、本から出した魚を売るのがこの店の仕事だ。客の依頼を受けることもある」
「客は滅多に来ないんじゃなかったんですか?」
「さっきお嬢さんが駄目にした本が一番新しい依頼だった。足掛け五年の大作だったのに……駄目になってしまったがな……。カメは金魚を食べる。お陰で文中で飼っていた金魚は全滅だ。たくさんの金魚が出てくる絵本がほしいという依頼に、カメしか出てこない絵本をどうして差し出せる」
 わざとではないとはいえ、なんだか申し訳ない気持ちになる。今度から気を付けます、という謝罪を寸前で飲み込む。
「この絵本、おいくらなんでしょう。あまり多くは出せませんが、私のせいで台無しにしてしまったのだし、買い取りますよ」
「お代なんていい。持っていってくれ」
「そういう訳には……」
 現に老人はさっき「大損だ」と叫んでいた。
「この店に入るのにも運とコツがいる。あの依頼主がもう一度ここに来られることなんて万に一つだ。そんなこと私でも分かっている。なに、ただいじくりまわしていただけだ」
「でも……」
「お嬢さんも、次にここに来られる確率は万に一つだ。取っておきなさい。カメが金魚を食い荒らす物語なんてお嬢さん以外に渡せんよ」
 確か袋を用意してあったんだった。と老人が机の引き出しをまさぐった。眼鏡や鉛筆やトランプやら雑多な物を避け、やっとロウが引いてある茶封筒を見つけたのに、それは手に取った瞬間ぼろぼろと風化してしまった。老人がため息を吐く。諦めたように本がそのまま差し出された。それでもまだ躊躇っていると、強引に押し付けられた。
「もう帰りなさい。私も久しぶりに人と話して疲れた」
「あの、お邪魔しました」
 追し出されるようにして外へ出る。重たげな木製の扉が閉まる。中からはもう何の音もしなかった。
「万に一つ、か」
冗談と思っても、刻みつけるように「田村金魚店」と書かれた看板を見つめた。錆びて、端の方は崩れ落ちている。一体何年前からある店なんだろう。聞きそびれてしまった。
川の方から冷たい風が吹いた。
歩道と川を仕切る錆びついた柵を掴んで、川の方を見る。川は深緑色に濁っていた。冬はプランクトンが少ないから、水が澄むというけれど疑わしい。春になれば。
春になればあの川にもカメが泳ぐのだろうか。私は失ってしまった手のひらに収まる小さなカメの置物と、それと引き換えに貰った一匹のカメとたくさんの金魚が入った絵本のことを考えた。ついでにカメがあの鋭い口で金魚を襲い、食べていく様まで想像してしまって体が震えた。春はまだずっと遠く、外は考え事をするには寒すぎた。私は、今度は転ばないようにしっかり足元を確かめながら、絵本を小脇に抱えて寒空の下を速足で進んでいった。




その夜、足元の羊のカバーがついた湯たんぽを冷たくなるまで何度も足で蹴りながら、窓を流れる水滴を眺めていた。羽毛の毛布を首まですっぽり被っても、一向に眠気を感じなかった。それどころか、目を閉じてじっごしていると、しゃく、しゃくとどこから金魚の体が噛み砕かれる音が、鱗の剥がれ落ちる音が聞こえてくる気がするのだ。加湿器は絶え間なく蒸気を吐き出し、しゅんしゅん音を立てる。近くの道路を走る車の排気音が微かに聞こえる。一枚壁を隔てて、母のいびきが聞こえる。でもそれ以外にこの部屋には、きっと、確実に、別の音があるのだ。私にはその音の出元が分かる。机の上に放りっぱなしになっている絵本だ。金魚が二匹表紙に描かれた可愛らしい絵本だ。けれどあの本に残った金魚がもうその二匹だけだとしたら? それ以外の数えきれないほどの金魚たちが残らずあの500円のカメに食べられていたら? 本のページには金魚の鱗が、赤い血液が点々と残るばかり。金魚の墓場を、死神のようにカメが甲羅を引きずりながら徘徊していたら? かたっ、かたっ、しゃく、しゃく。
部屋の片隅で金魚が惨殺されていると知りながら、心安く眠れる筈がない。
老人の言葉を思い出す。「カメが金魚を食い荒らす物語なんてお嬢さん以外に渡せんよ」私はいくら大好きなカメが登場していようが、こんな絵本を引き受けてしまったことを早くも後悔していた。あの偏屈老人め。もっと食い下がって、いやいやうら若きお嬢さんにこんな恐ろしい本は渡せんよ、くらい言ってくれたら私もはいそうですかさよならと軽やかな気持ちで帰宅し安眠できたのに。
はたしてあの老人は何者なのだろう。今日初めて会った相手に何者もないが、不思議なことが纏わりすぎている。店についてだってよく分からない。鴨川沿いのあの通りを、私は何度も何度も通ったことがあるはずなのに、田村金魚店なんて店は見たことがない。今まで気がつかなかっただけだろうか。そのままでいたらこんなに悩むこともなかったのに。どうして今日に限って見つけてしまったのだろう。
 私の後悔がカメを買ったところまで、そして買い物に出かけたことまで、買い物に出掛けたくなるくらい可愛い手袋を買ったところまで及んだあたりで私はいつのまにか眠りに落ちていた。悪夢を見たことは言うまでもない。絶対明日になったら、店主に絵本を返しにいこう。そう決心したのは夢の中だったか現実だったかよく分からない。


 *


 寝不足でふらつく頭を引きずって、トートバッグに絵本だけ入れて私は昨日の場所へ向かった。しかし店は一向に見つからない。googleマップで検索しても、ヒットした場所は兵庫県だった。通行人に聞こうにも、コンビニの店員も首を横に振るばかり。途方に暮れて足取りはだんだん遅くなる。トートバッグの中から何かが動く音が聞こえたような気がして、私は慌てて絵本を取り上げて耳を近づけてみたが、何も聞こえない。川の流れる音と聞き違えたのだろうか。
 道路からは鴨川が一望できる。今日も今日とて鴨は中州の草むらで日向ぼっこに励み、雀やカラスが二三羽跳ねていた。道路と河川敷とを隔てる錆びた柵に掴まり改めて観察すると、中州に流れ着いた漂流物は、草木だけではなく空き缶や雑誌などゴミも多い。私の心の中の悪魔がむくむく頭をもたげてきて囁いた、「捨ててしまえよ。」私は頭を振ってその邪念を打ち払う。それはよくない。
今日はもう帰ろう。店はまたいずれ見つけたらいいか、そう呟いて足を踏み出して、そして私は足元のタイルのでっぱりに躓いた。
 絵本は私の手を離れ、水を得た魚のように寒空を滑空し、真っ直ぐに飛んで行った。
 私は慌ててそれを追いかける。柵と柵の間から階段を駆け下り、川原へと走る。川を横断する飛び石の一つに、絵本は引っ掛かっていた。ちょうどカメの形の飛び石だった。私は飛び石を一つ飛び越え二つ飛び越え、なんとか絵本の掛かった石にたどり着く。表紙を掴み、引きあげる。本から赤い水が滝のように流れ出す。水ではない、何十匹、何百匹の金魚の大群だ。絵本はたくさんたくさん金魚を吐き出した。川を泳ぐ金魚たちは一匹一匹細部まで鮮明に見えた。水が澄んでいるのだ。濁って見えたのは、川底に生えた藻や苔のせいだった。
解き放たれた金魚たちは飛び石の周りに血だまりのように広がり、やがて散り散りになりながら上流に泳ぎ出した。
水でぐしゃぐしゃになった絵本の表紙を最後に叩くと、小さな黒い固まりが水の中にぽちゃんと落ち、浮かび上がった。手を伸ばして掬い上げると、それは小さなカメだった。必死に足を動かして、前に進もうともがいている。「もう生き物だ」あの老人の言葉が脳裏をよぎった。
きゃあきゃあと幼い歓声が聞こえて顔を上げると、子どもたちが橋の上からこちらを指さし、何か叫んでいた。すぐにマフラーと手袋を傍にいた母親に託し、好奇心でいっぱいの笑顔を湛えたまま橋脇の階段を全速力で駆けてくる。
金魚の群れを探したけれど、川面を太陽光が反射して見つけられなかった。
ぐしょぐしょになった絵本をトートバッグに押し込んで、手の平に収まるサイズの小さなカメを持ったまま飛び石を順に飛んで川岸まで戻っていく。
マフラーを取って深呼吸をすると、北風が首を掠めて、火照った体を冷ましてくれた。

2013.