百華 鬼斗

子どもの頃って、何か一つのものに熱中したりしませんでしたか。ブロックをひたすら組み立てたり、人形で一日中遊んだり、同じアニメを繰り返し見たり。大人でも、そういう方はたまにいらっしゃいますけど、子どもの方が自由に使える時間が多いですから、何かに没頭する子ども割合もやはり、子どもが多いように感じます。私の場合、それは、火、でした。鮮やかに燃える……、火……。
 私が覚えている最初の記憶は、母がたばこを吸っている、そんな場面です。……いや、正確に言うと、母のたばこに火をつける、ライターの記憶です。母は、四歳ぐらいだった私を、気遣ったのでしょう。ベランダに出て、それから一本たばこを取り出し、口にはさんで火をつけました。その時ガラス越しに見た、そのライターの火は、静かに、しかし激しく、とても激しく、幼かった私の心を、とらえました。その火の鮮やかさは、今も、目を閉じればすぐに浮かんできます……。ゆらゆらと揺れて、火は私を、誘惑していた……。そのときの晴れた青空も、風に揺れて咲いていた赤い花も、母が着ていたラメ入りの黒いドレスも、オレンジ色の火が放つ、圧倒的な美の前には、ただ膝を折ることしか出来ていませんでした。私は、思わず手を伸ばし、火を掴もうとしました。この火を、自分のものにしようと、手を伸ばしました。店の棚の上に積んである、どうしても欲しかった人形を求めるように。しかしその時、私をあざ笑うように、火は消されました。私は深い悲しみに襲われました。火は、私を、誘うだけ誘って、すぐに姿を消したのです。火が消えた後、この世界は完全に輝きを失って見えました。たばこについた火に、私は何も感じられませんでした……。
 たばこを吸い終え戻ってきた母に、ライターを貸すよう頼みました。母は一瞬、困惑した表情を浮かべましたが、すぐにそっと手渡してくれました。しかしそのライターは、火打石を素早く回さなければ火がつかないもので、私は何度も挑戦しましたが、どうしてもそれをうまく回せず火をつけることが叶いませんでした。先程は私を誘っていたのに、すぐに裏切る……。もちろん、つけられないことを見越して、母はライターを貸したのでしょうけど。私が失望して、そこら辺に放り投げたのを拾うと、母はさっさと家を出て仕事へと向かいました。
 火を手に入れたい、という思いは収まることなく、私の中にずっと燃え続けていました。しかし、火を実際に手に入れたのは、初めてそれを見てから、一年近く経った後の事でした。私は母と二人で、祖母のお盆参りをするために、小さな町に行きました。仏壇の前で母がだるそうに動くのを、私はただ見ているだけでしたが、仏壇をきれいにした後、母がろうそくに火をつけるのに、いつも使っているライターを使わず小さな箱を手に取りました。それまでライターしか、火をつける方法を知らなかった私にとって、その箱は、魔法の箱のように思えました。母がマッチを元通りにしまい、お坊さんを呼びに行ったとき、私は素早く引き出しからマッチを取り出しました。取り戻しました。そのマッチの箱は、小さかった私の手に奇妙なほどしっかりとなじみました。そして、どこからか現れたお坊さんにお経を読んでもらい、何かを祈る母を真似て、私も顔の前で手を合わせ……。……ごめんなさい、嘘です。私はマッチを手にして、その後の事は覚えていません。ひどく……どうでもいい、と思った以外は。
 家に帰り、母がまた、どこかへ行くのを確認してから、私はマッチの箱を取り出しました。最初は一本だけ取り出し、火をつけようとしましたが、私の力の入れ方が下手だったのか、マッチは真ん中で折れてしまいました。そこで、今度はマッチを三本束ねて持ち、ためらいの気持ちを一切捨て、箱にこすりつけました。火は、心地よい音を立て、一瞬の私の緊張を破って、燃え上がりました……。私は、一年ぶりに見たその美に深く感動し、動けなくなりました。その時、私はぼんやりと、火を掴んだ……、そう思いました。火は、私を裏切った過去を忘れ、その美を、めいっぱい表現していました。火は、必死でした。必死に美を表現していました。私の手によってとらえられた者が、身をよじって、何とか逃げるかのように。それは、たまらなく愉快な光景でした……。その努力は儚く散るというのに。私は笑い出していました。気付いた時には、火は既に私の指のすぐ近くまで来ていました。捕まっていたはずの火が、私を脅かす存在になっていました。しかし私は、近づく火に、今度は太陽のような温かさを感じ、満たされたように思い、ずっと手に持っていました……。
人間は、確かに、火を扱うことを覚えて、進化してきたと思うんですよね……。手を近づけると、温かい。暗い夜を、明るく照らす。まるで自分が、太陽を手に入れた、という錯覚に、襲われますもの……。少なくとも、私はそう感じました。だから私は、必死で火を欲しがりました。太陽に似た火は、私の求めるもの全てでした。美、光、温もり……。

小学校に進級しても、火に対する思いは衰えることはありませんでした。私は飽きることなく、学校から帰る途中にあった公園に立ち寄り、そこでものを燃やしていました。学校でもらったプリントを燃やし、ノートを燃やし、教科書を燃やしていました。どのようなものが一番綺麗に燃えるのかを試すように。……教科書は、よく燃えましたね。燃やしてはいけない、燃やしたら自分が困るもの、燃やされることは無いだろうと、安心しきっているもの。……そういうのが一番、火をつけたときに、鮮やかに燃えました。きっと、私の気のせいではないと思います。だから……、私をいじめていた、Yに火をつけたのは、日々のいじめに対する反抗ではなく、綺麗に燃えそうだったから火をつけたのです。私に対するいじめは、今思えば確かにひどいものでしたが、私はYに対して、ほんの少しの殺意も抱いていませんでした。彼女は、ただ綺麗に燃えそうだったから。自分の身体に、火がつけられることなど少しも想像していなかったから。私は、彼女に、火をつけたのです。誰に話しても、信じてもらえないのですけど。
彼女に火をつけてみると、それは想像していた通り、よく燃えました。私は優越感、誇らしさのようなものを感じると同時に、自分で火をつけておきながら少しだけ、ほんの少しだけ、Yに嫉妬していました。Yは、あまりにも火に、似すぎていたのです。周りを不幸にすることでしか、存在できない、火に。近づくものを消費して、それでやっと……それでしか、上へと昇れない、火に。自分の手元にあった小さな火が、新たな対象を見つけることで、自分の手に負えなくなるほど大きくなっていく様子は、火を愛していた私にとって屈辱でした。私は、私自身が持つ、火の小ささ、弱さに呆れました。私と火の間にある、果てしない距離に絶望しました。

それから何年か経った後、私は施設に移りました。というのも、母が蒸発してしまったのです。それまでも、家を何日も空けてどこかへ行っている事があったので、私はその時も特に気に留めていませんでしたが……。母の職場の人が、無断欠勤が続いていると騒ぎ出して、初めて母が私を捨て、どこかへ行ったらしいということを知りました。その職場先の人が言うには、常連だった男に惚れて、二人で、誰も知らない場所へ駆け落ち同然で、逃げていったのではということでした。私を連れて行かなかったのは、単純に邪魔臭かったのでしょう。私もその頃になると夜遊びを覚えて、それなりに面倒なことを起こしていましたし、母とは小学校の頃から、ろくに話をしてなかったので、母は、自分が急にいなくなったとしても問題ないだろうと思ったのでしょう。事実、私は母がどこへ行こうと、何をしようと興味は無かったですから、見つけ出そうと実際に行動を起こしたりもしませんでした。いつか、こんな日が来るだろうと、何となく予想していた通りになったと思ったぐらいです。
施設にいる子供達は、学校に似た授業を適当にやり過ごしながら、出来るだけ存在感を消して、日々を送っていました。親に捨てられ、自分が必要ない存在であるのを自覚しているのか、それとも時折やってくる暴力団の人に、おびえて目立たないようにひっそり生きているのか……。聞いた話だと、その施設は、暴力団との結びつきが強いらしく、時折男子が知らない大人に連れ去られて、その後ひどく疲れた様子で帰ってくるらしいです。女子も、もしかしたら何かに、利用されていたのかもしれません。とにかく、そこには、影を踏んで生きているような、そんな子供達が集まっていました。そんな場所で私は孤立しました。ここに来る前は、彼らのような生き方をしていたのに、客観的にその姿を見ると、私は嫌悪感を抱きました。そしてそんな自分に、私はYの姿を自然と重ねていました。Yが私を見ていた目と同じ目つきで、私は彼らを見ている……。他人を消費することでしか、自分を保つことのできない存在。太陽に似ていて、しかし最も悪に近い。そんな哀れなものに似て、私は……嬉しかった。小さいころから憧れ続けた火に、近づいたのだから。今の私なら、美しい火として死ねるのではないでしょうか。……こうして私は火となるのを決めました。
皆が寝静まった夜、私は部屋にガソリンをまき終え、はぁ、とひとつ息を吐きました。周りは臭いが充満して、息を吸うと鼻がおかしくなりそうでしたが、もうすぐ火となる私には、どうでもいいことでした。私は、この日のために買ったジッポを取り出し、火をつけました。それからそれをそっとやさしく、未来へ投げました。口元に笑みを浮かべて。何かが弾けるような、心地よい音が鳴ったと思うと、私を包んでいたはずの黒い闇は消え失せ、代わりに、太陽に似た光が現れました。夏の日差しに似た、肌を痛いくらいに焼く光。私は、思わず目を開きました。自分が恋い焦がれた火という存在と、一つになる瞬間を見届けなければ、死ねない。私が愛した、火。私はこれから、火そのものになる。誰かの好意を食ってでしか、存在することのできない、純粋な悪。それは私を、優しく抱き締めてくれました。火は、そのとき私が欲しかったもの全てを与えました。これ以上の幸せがあるでしょうか。私はそのまま快感に身をゆだね、ただぼうと、この運命を受け入れたのでした。

(終)

2013.6.18
『紫』第七号