ガーベラの旋律

シャッフル企画

その絵はとても綺麗だった。
コンサートホールでタキシードの男性がピアノを演奏しているところが切り取られている。
この男の人はただひたすらにピアノを見つめていた。
このタキシードの彼が弾いているピアノの曲が聞きたくなった。
私はピアノを習っていたことも、触ったことすらもないのだけれど。
私はなんだか不思議でならない。
食い入るように何分もその絵を見つめていた。目が乾いてきていた。
どうやら私はこの絵にひかれてしまったみたいだ。


私の唯一趣味と呼べるものは自分の部屋で絵画をまとめた本をぱらぱらと眺めることだ。
学校にはもうかなりの間行っていない。
特に問題を起こしたわけでも起こされたわけでもなく、そう、なんとなくとしか言いようがないのだけれど両親は咎めることをしてこなかった。そこに甘えているのかもしれないなと自分でも思っている。
ピアノの絵と出会ったのも、自分の部屋で絵画の本をめくっているときだった。
薄いレースのカーテン越しに日は差し込んでいたが、それでも部屋は薄暗い。
こんこん、と軽くドアをノックする音がした。
私は重い腰をあげてドアを開け、「何―?」と間延びした声をかける。
予想は当たって、ドアの先にいたのは母だった。私は一人っ子で、この家には母と父と一人の家政婦さんしかいないので予想は簡単なのだけれど。
「ああ、花ちゃん。ちょっと見せたいものがあって」
母は、ご飯のときにしか部屋から出てこない私を心配してか、時折私の部屋を訪れる。そうして数分間ぽつぽつとおしゃべりすると満足し、最後に夕飯のメニューを聞いてからかえっていく。でも今日は何か手にしている……?写真?
不思議そうにしている私を見てちょっと笑うと、そっとその手の写真を差し出した。
なんだか少し得意げに。
「花ちゃん、絵画の作品よく見てるでしょう? 私も実は若いころ絵画にはまってた頃があってね、いろんな美術館を巡ってたのよ。ヨーロッパにまで行ったこともあるの。
その頃撮った写真がどこかにあるはずだなあと思って探してたんだけど……やっと見つかって。本に載ってるような有名どころはもう見飽きちゃっただろうから、あんまり知られてなさそうな絵を持ってきてみたのだけど……どう……見ない?」
母は私の表情をうかがうようにおずおずとこちらを見た。
「いや、ありがとう。見るよ」
「そっか! 私、有名な絵画もいいと思うのだけど、こういう無名作家の作品もいいものだと思うの。ゆっくり見てみてね」
今日はおしゃべりもそこそこに母は部屋を出て行ってしまった。
ちょっとしてから、「あ、忘れてた。夕食何がいいー?」という声がドア越しに聞こえた。
私はドアを開けて「さっぱりしたやつ。」と呟いてからベッドに寝転んだ。
そうして、渡された何枚かの写真に目を通してみる。
全部見たことのないものだった。何の本にも引っかからないレベルの無名作家たちの作品みたいだ。ほかに趣味がないため絵画ばかり漁っているので、かなりの作家を網羅したつもりでいたのだが。どれも綺麗に撮れていて、絵画を楽しむには申し分ない。
母にこんな才能があったなんて……、すこしびっくりだった。
こうして、私は例の絵画の写真を見つけることになる。
花畑や綺麗な女性や田園風景、猫などいろいろなモチーフの作品があったが、八枚目の絵画は一人の色白の男性が一人でグランドピアノを弾いている姿が描かれたものだった。
細かな筆致で描かれていて、その表情がはっきりとわかる作品。
どこか哀愁が漂っている。
そう、理由ははっきりとしないけれど十数枚の写真のうちそれが一番のわたしのお気に入りになった。

何日か続けてその絵画を眺めているうちに、私はいつの間にかピアノに興味を持つようになっていた。ピアノを弾けるようになれば、この男の人がどんな気持ちなのかわかるのかな、なんてふと考え付いたのだ。
そういえばうちの家にピアノがあったような。
むかし地下室を覗き込んだ時に黒い大きなグランドピアノを見た記憶がある。
母は多趣味な人だから、多分若いころに挑戦してみたのだろう。飽きてしまったのか、今弾いているような様子は見られないけれど。
ある日の夕食の席で、私はおもむろに、
「ピアノを習いたい。」
と言ってみた。ピアノを新調する必要があるわけでもないだろうから、あまり気も引けなかった。ほんの軽い気持ちで言ってみたのだけれど、私の両親は予想を超えて大喜びした。
普段学校にも行かず、ほとんど部屋からでることもない無気力な娘が初めて自分から何かをしたいといったことに感動したみたいだ。
快すぎるくらいに快諾された。わからないこともないけれど、その晩のうちに地下室のピアノの状態を確かめて、業者に連絡して、ピアノ調律師の予約を取り付ける行動力にはびっくりした。
まったく、娘とは大違い……。
私は思わず苦笑した。


 
また驚かされたのは、その予約した日が翌日だったことだ。
「もうすぐ調律師さんくるらしいよ」
母が嬉しそうに、珍しく部屋の外にいる私に話しかける。
あまりにも早急に物事が進みすぎてピアノを始めるのが自分だということをわすれていた。いざ実際に始めると考えると若干落ち着かない。
ピアノ講師まで予約されてしまい、ここまで手を回されたらさすがの私でも、やっぱりやめるなんて一言は言えないだろうなと思う。
緊張、なんてしたのはいつ振りだろうか。
「私お茶菓子買ってくるから、お留守番よろしくね」
母は肩の長さのパーマヘアを一つに束ねつつ玄関を出ていった。
はーい、と一応聞こえるか聞こえないかくらいで返事はした。
家政婦さんはこの一週間滅多にないお休みをとっている。
誰もいない広い家。
普段狭い自分の部屋にいるとこの広さを感じないが、物音一つしないリビングルームに一人でいると、このいえの無駄ともいえる広さを思い知る。
少しさびれているとはいえ高級住宅街にあり、三人家族用にしては大きい邸宅に、花壇のある芝生の庭。私がこれまた無駄に大きな窓から外をぼんやりと眺めていると、視界の端に人影がちらつく。
母にしては早すぎる。
私はこれまでの人生において最高ランクの焦りを感じた。
調律師が母と入れ違いに家に来てしまったみたいだ。
おもてなしのスキルなんてないに等しい私が、ただでさえ久しぶりに会う‘他人様’を出迎えなければならない事態。
事態に気づいてどうしようか考えている間に無常にもインターホンが鳴る。
もともと調律師は顔を見てみるだけにしようと考えていたのに。
そして二回目のインターホン。
私は無言でドアを開けた。
隙間から光が差し込んでくる。
見上げると目が合った。
「こんにちは。ピアノ調律師の佐藤ともうします」
彼は私の想像とはまるで違って二十代くらいの若くて色白の男の人だった。
調律師、と聞いて私は今までテレビで見る鑑定士のような、難しい表情をした髭の生えたおじさんがくるものだと勝手に思っていた。
予想がはずれたというのもあるが、何かほかにひっかかる……。
黙ったままの私に困惑している様子の調律師のお兄さんをじっとみてみる。
ああ、わかったかも。
少し似てるんだ、絵画の彼に。
色白なところとか、髪型の雰囲気とか。
気が付いたところで調律師の困惑の色をちゃんと認識し、私は慌てて中へ通した。
「どうぞ……」
「あ、失礼いたします」
調律師は丁寧に一礼し、玄関へと足を踏み入れた。
しばらく無言で廊下を歩いていると、調律師が口を開いた。
「庭のガーベラ、綺麗ですね」
壁の片側がガラス張りになっていて、ちょうど庭の花壇が見えるところだ。
この時期は母が植えたガーベラが花壇いっぱいに咲き乱れている。
私の記憶にはないのだけれど、私がまだ小さい頃、町の花屋に連れて行った際にガーベラの花をいたく気に入ったらしく、それを見た母が私のためにと家の花壇いっぱいにガーベラを植え始めたらしい。
物心つく前の話なので思い出せはしないけれど、今見ても花壇のガーベラはとても綺麗。
「いいですよね、ガーベラ」
「……ガーベラは好きなの、昔から」
絞り出すように言葉を発する。さっき見知ったばかりの人と話すのは一言一言が私にとっては結構な重労働だった。でもこころなしかこの調律師と並んで歩くのは苦にならない。
そんな気がした。
でも絵だったら、言葉ではない何かで語りかけてくれて、私はただ黙って見つめているだけでいい。だから私は絵を眺めているのが好きだった。
ガーベラの見える廊下を抜け、地下室へ降りた途端、調律師はしかめ面をした。
「ひどい湿気……」
地下室の中央に置かれた大きな黒いグランドピアノは素人目に見ても傷んでいるのが分かった。カビのようなものすら生えている。調律師は意を決したように白い手袋を手にはめると、そのピアノを点検し始めた。鍵盤を一つ一つ押さえていくと、広い地下室はその音をよく反響させた。私はそれにしばらく耳をすませていた。と、調律師がピアノの状態を調べているうちにだんだん悲しそうな表情を見せ始めた。
「……泣きそう?」
「えっ?」
彼はびっくりした表情を見せる。無意識だったのだろうか。泣き出しそうにも見えたのに。
「い、いや、なんだか、そう見えて」
「そう……でしたか?これは失礼しました。こんなにいいピアノが長い間ほったらかしにされていたみたいで……」
「……ピアノの代わりに泣いてあげてたとか?」
「そんなところですかね…」
ふふっと彼はかすかに苦笑する。

「もう、なおらないの?」

ピアニストの思いは、結局知ることはできないのだろうか。
彼はうーんと考え込んだ様子をみせてから、
「お嬢さんさっきからずっと遠くから見ていらっしゃいますが、もっと近くで見てみませんか?」
と言った。
はぐらかされたのだろうか。
もしかしたら本当にこのピアノは治らないのかもしれないな、などと思いつつおずおずと近寄ってみる。
ほぼ初対面なのにやはり恐ろしく感じないのは、きっとあのお気に入りの絵のピアニストと雰囲気が被るからだ。
「ピアノは実は、洋琴という別名も持っているように、弦楽器の仲間ともいえます……」
私を椅子の上に立たせると、彼はゆっくりとピアノの屋根を開いていく。
無数の弦は規則正しく、しかし複雑に並んでいる。
「この弦がピアノにとって大切なんです。失礼ながら外はこんなにも傷んでいるのに……不思議と弦はそれほど傷んでおりません。
だから、大丈夫です」
そういって彼は私に笑ってみせた。
調律師の表情は、それは微妙な変化だけれども、くるくると変わっていく。
見ていてなんだかおもしろかった。
特にそれを伝えることはもちろんなく、私はただふーん、と一言呟いただけだった。

翌朝、下の階から聞こえる物音で目が覚めた。
いつもならベッドで寝ころんだまま過ごすのだけれど、気にせずにはいられなかったため、下の階にゆるゆると下りてみる。
廊下で作業服をした数人の男性とすれ違い、たじろいだところで、
私は物音の理由を悟った。
目の前の部屋に、グランドピアノが運び込まれていたのだ。
大きな窓があり、ガーベラの咲く庭が一望できる部屋だった。
それに、さらに私を驚かせるものがあった。
それは壁に掛けられていた。
そう、あの例のピアニストの絵画だ。しかも本物。
私は思わず駆け寄った。
写真で見るよりも何倍も綺麗で、私は立ち尽くしたまま見入ってしまっていた。
どれくらいの時間がたっただろう。
「お嬢さん」
私はそう呼ばれてはじめて我に返った。
呼んだのは昨日の調律師だった。
言葉をみつけるのに私が手間取っていると、
「その絵凄くきれいですよね。ピアノ……思わず弾きたくなるような」
思わず自分がピアノを始める理由と同じことを言われて、私はさらに言葉に詰まった。
自分がもどかしくてならない。
後から聞いた話によると、この絵は私が写真を気に入っているのを見て母が探し出して、本物を買い付けてきたらしい。
「えと、ピアノ、ひかないんですか」
「んーと。私の右手はもうピアニストとしては使いものにならないんですよ。
 弦が切れてしまったんです」
調律師は笑って言う。
私はよりにもよってな質問をしてしまったのではないか。
こういう時にかける言葉を私は知らなかった。
「気にしないでください。遊びで軽く弾くくらいだったらできますし、それにこのおかげで、調律師って仕事にであえたのですから」
今日も見学なさいますか、と聞いてから彼は調律師としての仕事をはじめる。
私は黙ってうなずいて、その日も調律の仕事を眺めていることにした。
たまに彼はぽつぽつとピアノの知識や調律のコツをこぼすので退屈はしなかった。
それにこの部屋の日差しは心地よい。
お気に入りの絵画があって冬以外いつも咲き続けるガーベラが見えるこの一室は、
やがて自分の部屋よりも好きな場所となることになる。

昼食に私を呼ぶ母の声が聞こえる頃にその日の調律の仕事は終わる。
「退屈……じゃなかったですか?」
調律師は帰り際にふと尋ねた。
「いや……面白い、です」
表情が心なしか明るくなる。
「そうですか、そうですよね……。よかった」
彼は満足そうに何度かうなずいて部屋をあとにした。
ばたんとドアが閉まり、私と、そして絵画が残された。
さっきまでは話し声や、機材の音や、ピアノのためし弾きの音などで、音が絶えなかったこの空間が急に静まり返る。
私はそれを、少しさびしいと感じた。
音のない空間なんていつものことなのに。
だがしかし、絵画のピアニストをまた眺めているとそれは消えていった。
綺麗……。
その時、私の名前が再度呼ばれ、はっとして私も部屋を後にする。


次の日も、その次の日も、私は起きてすぐにその部屋へ向かって絵画を眺めた。
何度見ても不思議と飽きなかった。
その絵はドアと反対側の壁にかかっているので、音を立てずに入ってくる調律師に話しかけられ、そのたびに驚いては笑われていた。
そうして午前中の間調律の様子を眺めてみる。
これがいつしか私の習慣となっていた。
そうして日がたっていくごとに、調律師が出て行った後のあの妙なさびしさは増していった。それと不思議なことに、絵画のピアニストの表情もなんだか悲しみを帯びてきているように見えだした。私の思い込みにすぎないのかもしれないけれど。
そうして一週間が過ぎて行った。部屋で本を眺めながら過ごしていた一週間よりも早いように感じる。
「今日は、こっち向いて出迎えてくださるんですね」
いつものようにグランドピアノのある部屋に入ってきた調律師は可笑しそうにした。
強くなってきた日差しにガーベラがよく映える、天気の良い日だった。
「え?」
私が思わず首をかしげると、調律師は答える。
「ほら、お嬢さんはいつもあの綺麗な絵を眺めていらっしゃるので、いつも私は背中で迎えられていたのですが……、今日はドアを開くとこちらを見ていらしたので、ちょっと驚いて」
言われて気が付いた。
確かに今日はドアのほうを見ながら調律師の来るのを待っていた。
……そう、待っていた、のだ。
いつのまにか私は彼が来るのが楽しみになっていた。
絵画を見に来ているというよりも、調律の様子を眺めに来ているといったほうが正しいのかもしれない、今は。
「ほんとだ」
いつからこんな楽しみになったんだろう。
考え込んでしまった私を、調律師はおもしろそうに見ていた。
日が経つごとに、ピアノの音と、それから外装は綺麗になっていった。
調律師の彼は、音の調節だけでなく、外側の塗装も一人で受け持っているらしい。
たまに作業服を着てくる日もあった。

このころになると、終わりが気になってきていた。
調律師は調律の仕事のためにこの部屋に来ているのだ。
つまり、仕事が終われば来ない。
当たり前のことすぎるけれど。
「ねえ、調律っていつおわるの」
私は思わず尋ねていた。
彼は若干困ったような表情をして考え込む。
ピアノは綺麗な黒を取り戻していて、ペダルもそれぞれ正しい機能を果たせるようになっている。
もうすぐ仕上がるっていうのはいくら私でもわかる。
「あの、お嬢さん……」
「待って。あの、お願いがあるんだけど」
私は意を決して言葉を紡ぐ。
「はい、できることならなんでも」
「あのさ、……ピアノ一曲おしえてくれない?」
「私が、ですか?」
「うん」
私はドキドキしながらその答えを待った。
「ええ……もちろん。もちろんかまいません」
そういって彼は微笑む。
私はゆっくりと息を吐き出した。
彼がちょっと嬉しそうに見えたのは、これも私の気のせいなのだろうか。
「実は、もう今日にでも仕上がるんです。このピアノは。
 新品のころとまったく同じ、とまではいかないかもしれませんが、それに近いくらいには回復してるはずです……。いや、本当は……、」
彼は何かいいたそうだったが口ごもった。
私は特に追求することはしなかった。
じゃあもうピアノが弾けるのかと思うと、なんだかドキドキしてきていたのだ。
曲はなんでもいい、と伝えると、調律師はうーんと唸ってから

「『ムーンリバー』という曲はご存じですか?」

と言った。タイトルには聞き覚えがある。
「なんとなく。」
「そうですか、よかった。
 その曲でもよろしいでしょうか?
私の好きな曲、なのですが……」
「じゃあそれがいい」
そういうと、彼は嬉しそうに笑った。


それからの午前中は、調律の時間からピアノのレッスンの時間になった。
もう一つ変わったことといえば、その部屋に母が差し入れといってジュースやお菓子を運んでくるようになったことだ。
「本当に、追加料金はいらないのですか?」
「ほんとに結構ですよ。お礼としてやっているので、いただけませんよ」
母と調律師がモンブランを口にしつつ話している。
どうやらこのレッスンは無償でしてくれているようだった。
そういえば、自分で教えてほしいといったくせに、料金のことなどまるで考えていなかったことを今反省する。やはり私は甘い。
部屋を出ることが多くなってから、私はよく自分の甘えを痛感することが多くなった。
調律師に外の話を時たま聞いたからかもしれない。
そんなことを考えながら、私はムーンリバーを練習していた。
ムーンリバーは落ち着いた優しい曲で、初めて聞いた時から私もすきになった。
調律師は決して怒ることはしなかったけれど、簡単にほめることもしない。
本当に初心者だったわたしに、よく丁寧に教えてくれたと思う。
たまにほめられたときのうれしさは今までに感じたことのないものだった。
時間とともに私はムーンリバーを少しずつ弾けるようになっていく。
初めて弾く曲にしては難しすぎるムーンリバーだったが、好きこそものの上手なれ、というか、調律師曰く私はかなりのスピードで習得していったみたいだ。
「本当は、バイエルとかブルグミュラーとかの入門曲集から選んだほうがよいのかとも思いましたが……大丈夫そうでよかった」
私は夢中で練習した。たぶん喜ぶ顔や、驚く顔が見たかったのだ。
でもそのせいで離れるのが早くなるという皮肉に私が気づいたのは遅く、完全にムーンリバーを弾けるようになってからだった。
ついに一度もミスなく一曲弾き上げたとき、彼は本当にうれしそうにしていた。
そして彼はすぐうつむく。
……それは私もだった。
「素晴らしい、ムーンリバーでした……。感動しました」
彼は泣きそうに見えた。
「ありがとうございました、お嬢さん。
本当によくがんばったと思います」
私はまた言葉を見つけきれなかった。黙ったまま、じっと調律師を見つめる。
「これで、レッスンは終了……ですね」
彼は吐き出すようにそういった。
ゆっくりと一つ、大きなため息をつく。
聞こえるか聞こえないかくらいの声で彼は、失礼します、というといつものように、
ドアの方へ歩き出した。
そして去る直前に、黙ったままの私に向かって笑って見せる。

とうとう何も言えないまま、ばたんとドアが閉まった。
もうこれで、おわってしまう。
そう思うと、涙が出てきた。
……ああ、やだな。
自然と足が動いていた。


見るべき世界はたくさんあるわ
二人は同じ虹の端っこを追いかけているの

ムーンリバーの一節がふと頭に流れてくる。
彼が教えてくれた歌詞だ。
「私に夢を与えてきたのはあなた、」
そっと呟いてみる。

私も虹の端っこを追いかけてみようかな。




そして私もその部屋を出た。彼の後を追って。
部屋には、私がいつの間にか見なくなった絵画がのこされた。















ガーベラの旋律 U



Moon river, wider than a mile
I'm crossing you in style some day
Old dream maker, you heart breaker
Wherever you're going
I'm going your way

Two drifters, off to see the world
There's such a lot of world to see
We're after the same rainbow's end
Waiting round the bend
My huckleberry friend
Moon river and me
……

「Moon river」作詞ジョニー・マーサー作曲ヘンリー・マンシーニ
 映画『ティファニーで朝食を』の主題歌であり、主演女優のオードリー・ヘプバーンが劇中で歌った名曲。
 初めてこの曲を知ったとき、どこか物悲しげな雰囲気を纏った曲だと思った。なぜこんなに物悲しいのか分からなかったのに、少女だった私が、どうしようもなく惹きつけられたことを覚えている。
 何度も聴いたし、何度も歌った。
 それなのに、不思議とあの頃は歌詞の意味なんて考えようともしていなかった。
 今でもこの歌が何を言いたいのか、よく分からない。
 一見、どこまでも着いていくと、永遠の愛を歌っているようにも解釈できる。

 けれど、と、今私は思う。

どこまでもついていく≠ネんて、そんなこと本当にできるだろうかと。
自分の全てを投げ打って、愛する人に尽くすことなんて、本当にできるんだろうかと。
まして、それがついていきたくても行けないような、遠い存在の人だったなら、
Moon riverに渡ることさえできないのなら。

なんて絶望的な曲だろう、と。
 そう思った。

――――――――

 アンコールの「Moon river」を歌い終えると、場内から拍手が沸き起こった。私は閉じていた目をゆっくりと開く。降り注ぐライトが眩しくて、うまく客席を見ることができなかった。
「ほら、何やってんの。早くお辞儀しなさい!」
 ぼんやりとしていた私の背中を、キーボードの琴路が後ろから叩く。
 カーテンが閉まるギリギリで、私は慌てて頭を下げた。
『君の歌は、やっぱり素敵だね』
 えっ?
 頭を下げたとき、耳元で囁くような声が聞こえた。そんな気がした。それはずっと昔に聞いた、優しい声。
 この歌を歌ったときは、私はいつもこうなのだ。
 私は閉まったカーテンの内側で、ぼんやりと、その声の残響に耳を澄ます。
「ほら! 早く楽屋に戻るわよ」
 琴路が私の肩に手を置いた。
「ちょっと……待って」
「待たない! あなたはいつもいつもとろいのよ! 会場の片付けがあるんだから、ここにいたって邪魔なの、分かる?」
 琴路は私の右手を掴み取ると、早々に幕裏に攫っていく。
「……もうちょっと余韻に浸らせてくれてもよくない?」
 私はおずおずと前を歩く琴路に訴えた。
「コンサートなんて年にごまんとやってるでしょ? いちいち感傷に浸らなくてよろしい」
「ケチ」
 睨み付けてくる琴路に、私はわざと口を尖らせてみせる。
「そうだ! 私も片付けを手伝えばいいんだよ」
 我ながら天才だ。なんて名案!
「あなたが手伝ったら、片付く仕事も片付かないわよ」
 琴路が鼻で笑う。
「だいたい、のんびりしてる暇なんてないじゃない。次の会場に移動する前に例のところ、行けなくなるわよ?」
「それは困る! 私はコンサート後に行く焼肉のために歌ってるんだもの!」
 私は左手で拳を作って宣言する。同時に、あの肉の柔らかい感覚を思い出して涎が出そうになる。
「あなたのファンが聞いたら、どれほど落胆することか……」
 琴路は大げさに溜息をついた。
 楽屋の前まで来たとき、琴路が突然立ち止まる。琴路の早足に引きずられる形で後ろに着いて行っていた私は、勢いよく背中に頭をぶつけた。
「またいるわよ」
 私が抗議するよりも先に、琴路が耳元で囁いた。
 私は琴路の後ろから、楽屋の前を覗き見る。
 タキシード姿の花束を持った男が、そこには立っていた。
 一瞬、あの人が来てくれたのかと思って驚く。
『君に会えて、僕は嬉しいよ』
 耳元でまた声が聞こえた。そんな気がした。
 そっか。
 やっぱり、この声は私の記憶の中だけにしかない声なんだ。
 男はこちらに気付くと、顔をぱっと明るくして、長い脚をこちらに向けた。
「白井さんお疲れ様です。今日の歌も本当に素敵でした」
「ありがとうございます」
 私は柔らかな笑みを浮かべる。
「樋田さんもお忙しいでしょうに、毎回毎回、わざわざコンサートに来て頂いて……」
「いえいえ、全然そんな忙しくなんてないですから」
 樋田は私の顔を見つめると、なぜだか頬を染めた。
「連ドラの出演が決まったそうじゃないですか、ホントのところ、忙しいんでしょう?」
 琴路が横から口を挟む。樋田享平は若手注目の俳優なのだ。関係者以外立ち入り禁止のこんな場所に突っ立っていたのもそのため。
 樋田は琴路の問いかけにも「いえ、そんなことないですよ」と、どこか懸命に否定していた。
「あの……これ……受け取ってもらえますか」
 樋田が私に花束を差し出す。
「……ガーベラですね」
「はい……えっと……白井さんに、きっと似合う花だと思って、今日はガーベラにしてみたんです……花言葉が……神秘的な美しさで、……その……白井さんって……不思議な雰囲気が漂っている人だから……」
『ガーベラ、好きなんです』
 透き通るような声が、また聞こえた。
 ガーベラの花束を見つめていると、あの人のことを思い出す。あの人も、いや、あの人自身が「神秘」だった。
「どうも、ありがとうございます」
 樋田はまだ何事かしどろもどろにしゃべっていたが、何が言いたいのかよく分からなかったので、私はお礼を言って楽屋に入ろうとした。
 樋田が唖然とした表情で私を見つめる。
「……ちょっと、流石に可哀そうよ」
 琴路が、私を引き留める。
「なんで?」
「あんな正装して来て、きっと食事にでも誘う気なのよ」
 私は振り向いて、樋田の小動物のような目を見つめた。
……確かに物欲しそうな顔しているかもしれない。
「……樋田さん、お腹空いているんですか?」
「えっ……えぇ! 結構ペコペコで……」
 私は今日一番の笑みを浮かべる。
「よかったら、一緒に焼肉に行きましょう!」
「や、……や、焼肉ですか!!」
 樋田が素っ頓狂な声を出す。琴路はなぜか頭を抱えていた。
「焼肉はお嫌いですか?」
 私は二人の反応が良く分からなくて、小首を傾げながら訊いていた。
「い、いい行きます、行きます! むしろ大好きです。焼肉LOVEです! カルビ万歳です!」
「よかった」
 私はほっと胸を撫で下ろした。これで樋田の空腹も満たされることだろう。
「……あのタキシード、臭いがついて着れなくなるかもね・・・」
 楽屋に入りながら琴路が呟いた独り言に、焼肉の匂いのする服なんて素敵だなぁと感想を抱く。

 あの人と焼肉に行くことになっていたら、一体どうなっていたんだろう。
 想像してみて、可笑しくなった。

――二人は岸を離れ、世界を見るために漂う漂流者。
見るべき世界はたくさんあるわ。
二人は同じ虹の端っこ≠追いかけているの。――

「Moon river」の一節を口ずさむ。

きっと、あの人は。
先に虹の端っこ≠ノ行ってしまったのだろう。

――ムーン・リバー、1マイルよりもっと広い河。
いつか私は胸をはって、あなたを渡ってみせる。
私に夢を与えて来たのはあなた、
それを破って来たのもあなた。
あなたが何処に流れて行こうとも、私はついて行く――

――――――――
あの定規は、結局何センチなんだろう。
耳元で、バシッ、バシッ、と不快な音が鳴り響く中、高校生の頃の私はぼんやりとした思考を巡らせた。
ああ、だめだ。一分間に六十回は優に超してしまっている。
歌いながら、どうやら今日はだめらしいことを悟る。
歌の先生が常備している定規は、彼女の口はもちろんのこと、目よりも一層正直者だ。
音が聞こえてくる感覚は、メトロノームがごとく一定である。
彼女の機嫌が悪くなると定規を手の平に叩きつける癖は、ボイストレーニングスクールの中でも有名な話なのだ。
「全然ダメ」
 彼女は私が歌い終えると、溜息混じりに言い放った。
「気持ちがまったく込もってないわ」
「……気持ち……ですか?」
「そう。あなたの歌にはいつもハートがないのよ」
 彼女は高いハイヒールでカツカツと音を立てながら、私の元に近づいてくる。
「ハートのない歌は感動を生まないわ。特にこのバラードなんて最悪。物悲しさなんてこれっぽっちもない。あなたは、ただ曲を無難に歌いこなしているだけよ」
 あなた、もうバラードは歌わない方がいいわね、と彼女は吐き捨てた。
「もう一回歌わせてください!」
「いいえ、だめね。何度やっても同じ。きっと今から家に帰った方が、何十倍もあなたの人生のためよ」
 溜息混じりに告げられた言葉は、暗に歌をやめろと言われたも同然で、私は閉口する他なかった。
 彼女は、このボイストレーニングスクールの中でも特に優秀な講師だった。最近も私と同年代の女の子を歌手としてデビューさせたらしい。栄光を手にする者がすぐそばにいる一方で、私はというと、同じ先生から指導を受けながら怒られてばかりだった。
 残った時間は、ただ立ち尽くすことで費やした。
 足を組んでピアノの前に座った彼女は、一点を凝視したまま微動だにしなかったのだ。
 指導は十五分以上早くに切り上げられる。
「あなたには、悲しい歌は歌えないわね」
 教室の外に私を送り出しながら、彼女がまた言った。
「どうすればいいんですか?」
「さあ、こればっかりは人間のできかたの問題ですもの。どうこうできるものじゃないわ」
 彼女はそこで言葉を切った。
「一つだけ言えることがあるのなら、自分の気持ちをよくよく見つめることね。あなたには人の気持ちも自分の気持ちも分かっていないようだもの」
 彼女はそう言い残すと、防音設備の付いた重たい扉を勢いよく閉めた。

 私はトレーニングスクールから駅までの道を俯きがちに歩く。私の家はここから電車で一時間以上はかかる場所にあった。
 気持ちって何だよ……
 歩きながら、思わず溜息をつきそうになる。
 だいたいボイストレーニングって歌い方を教えることじゃないの? 気持ちだとかハートだとかにケチ付けられる場所じゃないじゃない。
 人間のできかたの問題って……なんで私の人間性にまで文句言われなきゃならないのよ。
 そもそも何だ、あの定規は!?
 誰か訊けよ、なんでそんな物持ってるのか。
 必要ないだろ。私たちに座禅でもさせるつもりなのか! あれでぶっ叩くつもりなのか!
「ちょっと、ちょっと、そこの御嬢さん!」
 唐突に話しかけられて、思わず声のした方を睨み付ける。
 誰だ、この最低最悪のタイミングで話しかけてくるのは。だいたい「御嬢さん」なんて寒くて古い言葉、よくそんな躊躇もなく、夕方から、そんな大きな声で……
「御嬢さん、今日の夜ご飯はもうお決まりですか? 決まってないんだったら、今日はガッツリ焼肉なんてどうですか! 実はこの道を右に曲ったところに焼肉屋[パラダイス]が新装開店したんっすよ。開店フェアやってるんで今なら安いし、どんなもんです?」
 法被を着た褐色男子から渡されたチラシを、私は握り締めたまま凝視した。
「女の子一人で心細いなんてことないから。個室だってあるし、食べきれないならサイズは小からでも……」
「どこにあるんですか!」
 私が突然大声を出したことに、褐色男子は驚きの表情を見せる。よく見ると大学生くらいの若い男で、法被には赤い文字ででっかく「パラダイス」と書かれてあった。
「どこって……この道を右に曲った先だよ。そのチラシにも地図があるから」
「ありがとうございます!」
 私は満面の笑みで、その男に会釈した。
「えっ……」
 私は一篇の迷いもなく右に曲った。
 なんて幸福なことだろう。
 やっぱりこんな最悪の日には、肉をガッツリ食べるのが一番いい。ナイス寒い大学生!その年齢で「御嬢さん」の冗談はきついと思うけどね!
「行っちゃうんですか……」
 後ろから、さっきの褐色男子の声が聞こえる。
「……一人でいいんですか……」
 いいんですけど何か問題でも? そもそも焼肉一人だったら心細いなんてことあるの?
 と一瞬思ったけれど、それは本当の本当の一瞬で、頭の中はもう肉、肉、肉で埋め尽くされていた。

 詐欺だ。
 ないじゃないか焼肉屋なんて、ここはどこだ? 錆びれた高級住宅街? コンビニすらないよ!
 私は先程もらったチラシを取り出して、右下に載っている地図を見つめた。
 正直、単なるマス目の羅列にしか見えない。実際の道ってこんな綺麗に賽の目状になっていないと思う、ホント。
「う〜ん」
 地図を見つめて唸る。……これは……。うん、多分二つ前の交差点あたりで左に曲らなきゃいけなかったのでは? それなら、なぜあの寒い大学生は説明しなかったのだよ。
 だめだ、道間違えるなんて、今日はとことんついていない。
 今度は本当に溜息をついた。
 強い風が前方から吹き抜ける。
「あっ!」
 前方から小さな悲鳴が聞こえて、私の顔面に白い物体が飛び込んでくる。
「ごめんなさい」
 私はその白い物体を手に取った。それはつばの広い真っ白な帽子だ。白は白でも、透き通るような透明な色をしていた。
「拾ってくれてありがとう」
 中年ほどの女の人が立っていて、私は慌てて帽子を差し出した。
 声が出なかったのは、その女の人が妙に綺麗だったからだ。「妙」なんて形容を付けるのも変な話だけど、なんていうか浮世離れした、高尚な美しさが、そこにはある気がした。
 この住宅街に住んでいる人だろうか、ふとそんなことを思う。
 女の人は私に微笑みかけると、ゆっくりとした歩調で通り過ぎて行った。
 しばらくその女の人の背中を見つめ茫然とする。
何、立ち止まってるんだ、私。
そう思って歩きだそうとしたとき、聴きなれた音が耳元で響いてきて、また立ち止まる羽目になる。
 ピアノの音?
 閑静な住宅街の中で、微かにピアノの音が聴こえて来る。
 いや、意識し始めると、かなり大きな音が響いているような気がしてきた。夕方から、そんなジャンジャン弾いて近所迷惑にならないものかと、全然この土地と無関係な私が心配してしまう。
 でも、綺麗な音だな……
 私は元々空腹でなかったことも災いして、不覚にも焼肉のことを忘れてしまっていた。ピアノの音の響く方向へフラフラと導かれていく。
 この曲は何の曲だろう。中学生の頃はピアノを習っていたのに、曲名も作曲者名も思い出せない。
 気付くと、一軒の家の前に出て来ていた。
広い庭一面に花が咲き乱れている。その向こう側に佇む建物は、「家」というより「お城」のようで、まるでおとぎ話に出て来る古風な洋館だった。
私は、それこそ不思議の国のアリスにでもなったような図々しさで、その洋館の敷地に足を踏み入れていた。
洋館に近づくにつれ、ピアノの音は大きくなっていく。
一体誰が弾いているんだろう・・・
洋館の玄関の前まで来ると、もう自分の内に起こった衝動を止めることができなかった。
もっとそばで聴きたい。
ピアノの音色が、私の意識から躊躇いを無くす。
玄関を開けて、靴を履いたまま中を突き進む。ピアノの音色はこの廊下の先からだ。
なんだろう。よく分からないけれど、このピアノの音色には人を惹きつける何かが存在している。懸命に誰かを探しているような、そんな旋律。
私は廊下の突き当たりまで来ると、そばの扉を勢いよく開いた。

一台のピアノ。
真っ暗な部屋。
開いた窓。
吹き抜ける風。

誰も、その部屋にはいなかった。
ピアノの音も、扉を開けた瞬間に聞こえなくなっていた。

あれ―――?
私は頭の中で首を傾げながら、部屋の中へ足を踏み入れる。
グランドピアノがある以外は、何もない部屋だった。開いた窓にはカーテンすら付いていない。
窓から注ぐ光によって、この部屋がずいぶんと埃っぽいことが分かった。歩くたびに埃が宙を舞う。
「誰かいませんかぁー……」
 今さらながらこの洋館の主たる人物に向かって呼びかけてみるが、返事をする者はいなかった。
「変だな……」
 私はグランドピアノのすぐそばに立つと、部屋全体を眺めてみる。
 何もかも殺風景な部屋だったが、壁に一枚だけ絵が飾ってあるのを発見した。
 私はゆっくりとその絵に近づく。
「きゃっ」
 ピアノから絵まで半分ほど距離を詰めたところで、窓から強風が吹き抜けた。絵は窓側の壁に飾ってあったので、私は思わず目をつむる。
 とても古い絵だった。
 茶色の額縁の中に、真っ黒なグランドピアノが描かれている。背景はどこかのコンサート会場のように見えた。
 綺麗な絵だ。どういう訳か見惚れてしまう。

「こんにちは、と言うべきなのかな?」

 突然後ろから男の人の声が聞こえて来て、私は慌てて振り向いた。
 ピアノの椅子に肌の白い、若い男が座っていた。黒のタキシードを着ていて、私のことを静かに見つめている。
 その瞳があまりにもの憂げで、私は思わずドキっとした。
「すいません! 勝手に入ってきてしまって……」
 私はこれ以上目を合わせるのがつらくて、顔が見えなくなるくらいまで頭を下げた。
「どうして、謝るんですか?」
 彼の声は透き通るような優しい声だった。
 私は顔を上げ、彼のことを見つめた。彼の姿はとても美しく、おぼろげで、どこか危うかった。
 彼の両手がゆっくりとピアノの上に移動する。

 音の織り成すハーモニー。
 私をここまで導いた曲。
 全身が身震いを起こす。
 私は息を飲んで、じっと耳を傾けた。
 優しいタッチで紡がれる音色は、
 理由は分からないけれど、どこか悲しかった。
 

 私は惚けた状態のまま洋館を後にする。まるで夢でも見ていたようなそんな感覚だった。
「うわっ」
 頭上に違和感を覚えて、右手で触ってみると蜘蛛の巣がくっ付いてきた。慌てて払いのける。
 そして今は、この蜘蛛の巣の意味を考えないことにした―――

――――――――
 ボイストレーニングスクールに向けて、道を歩いていたはずだった。
 通い慣れた道で、決して迷うことなどないはずだった。
 けれど、今私は迷っている。
頭の中では、前回のレッスンでのできごとが何度もリピートされていた。
あの耳障りな定規を打ち付ける音が、何度も、何度も、耳元に聞こえて来るのだ。
私は分かれ道に立ち止まる。
 大好きな焼肉屋に続いている道―――
 あの洋館に続く道―――
私は何かを振るい落としてしまうかのように、その横道に足を踏み入れていた。

 洋館の前まで来ると、誰かが洋館を眺めているのが見えた。
 私は恐る恐るその人物に近づく。
「あら」
 洋館を眺めていた人物が、私に気付いて微笑みかけた。
「また会ったわね、御嬢さん」
 その人は、あの白い帽子の女の人だった。
 「御嬢さん」って言葉もこれだけ綺麗な人が使うと上品な響きがするものだな、と私は妙に感心した。
「ここで何をしているんですか?」
 私は、どこか彼女の浮世離れした美しさに気圧されながら、やっとの思いで訊く。
 彼女はゆっくりと前方に視線を移した。
「……ピアノの音が聞こえた気がしたの……」
 それは、私に返事を返しているというよりは、独り言のように囁く声だった。
「それじゃあ」
 彼女は、初めて会ったときと同じように白い帽子を被って、その場を立ち去って行く。

 私は洋館の扉をゆっくりと開く。
「おじゃまします……」
 来訪を知らせるための挨拶を、口ごもり気味に呟いた。
 ピアノの聞こえない洋館はとても静かで、不気味なほどだ。
室内の温度は、外気と比べて低く感じた。
先日、足早に通り過ぎた廊下を、今日はゆっくりと進んでいった。
廊下の壁には一切の装飾はなく、壁紙でさえ所々剥がれている。
突き当たりの、ピアノが置いてある部屋の扉を開くと、いかにも建てつけの悪そうな不気味な音が響いた。
部屋の中には誰もいない。
私は吸い込まれるように、唯一壁に飾られている絵の元に近づいた。
やはり綺麗な絵だった。
中央に堂々と描かれたピアノ。
このコンサートホールの自慢であるはずのグランドピアノは、神々しいまでにスポットライトを浴びている。
じっと見つめる内に、何かが私の心に影を落とす。
それは、はっきり表現できない得体の知れないもので、胸騒ぎのような、落ち着かない感情を誘発した。

「その絵には触らないでくださいね」

優しい声が聞こえて私は振り向いた。
扉の前に、あの人が立っていた。
黒いタキシード姿で、私に微笑みかけている。その佇まいは初めて会ったときのそのままに美しく、おぼろげだった。
「すいません、また勝手に入ってきてしまって・・・」
「だから、何で謝るんですか?」
 彼は微かに笑いながら、私の元に近づいて来る。
「君がここに居たいと思ったのなら、それでいいんですよ」
 そう言って、私の髪の毛をそっと梳く。私の顔を覗く目は、深い黒色をしていた。
「あ……あの! このお屋敷って一面お花に囲まれていますよね! ……あのお花って何て名前なんですか?」
「ガーベラですよ」
 彼は開け放たれた窓の外に、細めた目を向けた。
「ガーベラ、好きなんです」
 彼はそう呟くと、当たり前のようにピアノの前に腰を下ろした。
 そして何度となく聴いた、あの曲を弾く。
 音は、私の体に、この洋館に、この空間に溶けていく。
「その曲は何て曲なんですか?」
「ベートーベンのヒソウ≠ナす」
「ヒソウ=H」
「深い悲しみという意味の悲愴≠ナすよ」
「……なんだか、暗い気持ちになる名前ですね」
 私の感想に、彼は少しだけ笑った。
「ピアノは、いつから弾いているんですか?」
「さあ……いつからでしょう」
 彼は立ち上がると、部屋の外に出て行く。私は呼び止めるでもなく、ただその様子を眺めた。
戻って来た彼の手には古ぼけた椅子があった。
「座ってください」
 私は虫食いだらけの椅子に躊躇いながらも腰を下ろす。
「……いつからピアノを弾いていたのかは、よく分かりません。けれど……僕はきっとピアノを弾かなければ、僕でいられなくなるんだと思います」
 彼は、彼の定位置であるピアノの前に座って、ピアノに背を向けながら私と真正面で対峙した。
 ここにあるものは全て、古く、壊れかかっていた。ピアノでさえも黒の塗料が剥げ掛かっている。
 不自然なまでに美しいのは、彼と、ガーベラの花だけだった。
「……何曲くらい弾けるんですか?」
「さあ、どうでしょう」
 彼は目を伏せて、手元を見つめる。
 その姿は、まるで…………
 先の言葉を考えようとして、私の頭の中は真っ白になった。
「……曲は、初めから弾けたんです。何もしなくても弾けました。
きっと僕は、そういうものなんです」
 彼は首を少し傾け、微笑みかけた。
 彼と話していると、無音の中にピアノの音が響いているような錯覚を起こす。
 彼はそういう存在なのだ。
「……今度は、違う曲も聴かせてください」
 私はそう言いながら立ち上がる。
 ここには、あまり居てはいけない気がしたから。
 帰り際、私はあの絵を一瞥した。
 スポットライトは最初と変わらず、漆黒のピアノに注がれている。

――――――――

 次に洋館を訪れたのは一週間後だった。
 ガーベラの花は、いつも煌々と咲き乱れている。
 洋館の敷地に入ろうとしたとき、玄関が開いた。
 一瞬、あの人が出てきたのかと思ったが、出てきたのは彼とは似ても似つかないスーツ姿の男だった。
 黒縁眼鏡をかけ、手元に握られた紙の束に目を落としていた。
 後ろから同じようなスーツ姿の男が出て来て、隣を歩く。
「いい場所ですね」
「……そうだな」
 二人の男は私には目もくれずに、道路に止めてあったスポーツカーに乗り込んで行った。
 エンジン音が鳴り響く。
 その音に重なって、頭の中でまた、バシっ、バシっとあの不快な音が鳴った。
 私は急いで洋館の中へ駆けこんだ。

 息を切らしてピアノの部屋に入ると、彼はあの絵の前に立っていた。
「こんにちは」
「…………こんにちは」
 私は慌てて、乱れた髪を整える。
 彼は私に微笑みかけると、またあの絵を眺める。
「……素敵な絵ですよね」
「ありがとうございます」
 私は彼の隣まで、そっと近づく。彼の横顔は、彫刻刀で削った像のように、陰影を纏っていた。
「でも、この絵はもうだめです」
「……どういう意味ですか?」
「中身がもう、ぼろぼろなんです。今はどうにか表面だけは取り繕っていますが、その内、絵そのものも崩れてしまうでしょう」
 彼はそう言ってどこか悲しそうに目を伏せると、いつものようにピアノの前に腰を下ろした。
 私はまた、この絵を眺めた。背景もピアノもどこまでも美しい。中身がもうボロボロになっているなんて、とても信じられなかった。
 コンサート会場で、スポットライトを浴びるピアノの図。
 ふと、頭に漠然とした不安がかすめて、急いで振り払う。
「いつも、タキシード姿なんですね」
 私は絵に背を向け、彼に訊いた。
「ええ」
 彼は短く答える。
 こんな普段着、他の人だったら絶対笑ってしまうのに、彼が着ていると何も言えない。
 むしろ、彼にはこの姿しかなかった。
「とても似合っていると思います」
「僕も、これが一番しっくりきます」
 彼はピアノの上に両手をのせる。
「新曲、聴いてもらえますか?」
「新曲ですか?」
「はい、ずっと昔に聴いた曲で、初めて練習しました。悲愴とは違う曲です」
 そう言って、彼は無邪気に笑った。どこか彼らしくなくてドキッとする。
 彼は鍵盤の上に視線を落とすと、指をピアノの上に滑らせていく。
 私はその曲を聴いて、目を見開いて驚いた。
 それは、ボイストレーニングでずたぼろに言われた曲だったのだ。
 私は、恐る恐る口を開く。

Two drifters, off to see the world
There's such a lot of world to see
We're after the same rainbow's end
Waiting round the bend
My huckleberry friend
Moon river and me・・・

 目を瞑っていた私は、拍手の音で目を開いた。
「素敵な歌声です」
「す、すいません」
「なんで謝るんですか?」
 彼はまた笑う。
「だって、途中で私の歌に合わせてもらったみたいで……」
「アドリブでしたが、うまくいきました」
 私は褒めてもらったのが恥ずかしくて、頬を染めた。
 けれど、次の瞬間には俯いて、複雑な思いに眉を寄せる。
「どうかしましたか?」
「…………私、この歌を歌って全然ダメだって言われたんです。ハートが込もっていないって。物悲しさなんてこれっぽっちも感じないって」
「そんなことは……」
「いえ!」
 私は彼の言葉を遮った。
「私、きっと分からないんです。前弾いてもらった悲愴も、このムーンリバーもいい曲なんだと思います。
 でも、何のためにその曲たちがあるのか、分からないんです。
 なんで悲しい思いで歌わなければならないのか、悲しい思いで聴かなければならないのか。
 悲しい思いなんて、できることならしない方がいいはずじゃないですか?
 悲しい歌は、悲しい物語は、必要なものなんでしょうか?」
 彼は私の言葉を聞くと、目を細め、窓の方に視線を移す。その視線はゆらゆら揺れると、あの絵のところで止まった。
「悲しみは……きっと悪い感情ではないんですよ」
 彼はどこか所在なさげに、右手で単音を弾く。
「人には喜怒哀楽があって、どれもつながっているんだと思います。悲しみは、感情の一部として機能しているだけです。きっと憎しみだって、感情である内は罪じゃない」
 今日も開け放たれた窓から風が吹く。風は彼の短い前髪を微かに揺らした。
「きっと悲しい歌や物語があるのは、悲しい思いを誰かに認めてほしいから、もしくは……」
 彼はそこで言葉を切って、目を伏せる。
「悲しい思いを後悔したくないから…………」
 そう言って彼はまた、両手を鍵盤にのせる。
 彼が弾いた曲は、悲愴でもムーンリバーでもなかったけれど、やはり物悲しかった。

――――――――

 私が最後に洋館を訪れたときは、どんよりとした曇り空だった。
 ガーベラの花も、心なしか萎れて見えた。
 私が洋館の庭から玄関までの道を歩いていると、前方から女の人が同じように歩いてくる。
 彼女は、あの白い帽子の女の人だった。
「こんにちは」
「…………こんにちは」
 もうすぐこんばんはになるかしらね、と彼女は微笑みかける。
「お姉さんは、ここに通っていたんですね」
「やめてよ、お姉さんなんて、そんな年齢じゃないわ」
 彼女は白い帽子の内側で、髪を掻き上げた。
「ずっと昔、この家に住んでいたの」
 彼女は私に背を向けて洋館を眺める。
「一時期、私はこの家から出られなくなったことがあったわ。外の世界に背を向けて、自分の殻に閉じこもっていた。
 だからこそ、この家の中でかけがえのない出会いもした。
 ここは間違いなく私にとって特別な場所で、特別な思い出の詰まった場所だったの」
 彼女はその場に屈むと、一本のガーベラを摘む。
「でも、それも今日で終わり」
「えっ」
「やっと踏ん切りがついたわ」
 私の胸に、冷たい緊張が広がっていく。

「明日、この洋館を取り壊すことにしたの」

 全身が一気に硬直する。
「花!」
 洋館の敷地の向こうから、男の人の声がした。遠目でよく見えなかったが、どこかあの人に雰囲気が似ている。白い帽子の女の人は、その声に答えると、ゆっくりとした足取りで洋館を後にしていく。
 そこで……
 ピアノの音が、鳴り響いた。
 懸命に響くのに、白い帽子の彼女には届かない。
 彼女は最後の最後まで一度も振り返らなかった。

『明日、この洋館を取り壊すことにしたの』
 
そんなの……だめだよ!
私は駆け出す。玄関を開いて蜘蛛の巣だらけの天井を見た。穴だらけの床を飛び越えた。
ボロボロで、今にも崩れてしまいそうな壁をつたっていった。
ピアノの部屋まで来ると、壊れてしまって、開ける必要のなくなった扉を避けながら中に入った。

彼はピアノの前に、美しいまま、おぼろげなまま、危ういまま存在していた。
もの憂げな視線を、初めて会ったときと同じように向けてくる。
「僕には、好きな人がいました」
 彼は、今日も黒のタキシード姿だ。
「彼女は、僕のことをじっと見つめてくれました。何度も、何度も。いつの間にか僕も彼女を見る≠アとが楽しみになっていた。好きになっていた。
 けれど、触れることは叶わなくて。
 声をかけようとしても、口は動かなくて。
 ピアノを聴いてもらいたくても、僕は刹那の切り取りでしかなかった。
 その内彼女は僕を見つめてはくれなくなって。
 違う男の人と外に出て行った」
 彼は、また両手を鍵盤の上にのせる。
「歌ってくれますか?」
 
 分かっていたんだ。

 私は決して力む必要のないムーンリバーの曲を、悲鳴を上げるようにして歌う。

 分かっていた。
 蜘蛛の巣が蔓延るような廃墟に、人が住むことなんてできないことくらい。
 タキシードを普段着にするような変人は、実在しないことくらい。

「君の歌は、やっぱり素敵だね」
 優しい声が響く。今までと変わらない優しい視線が私に向く。
「僕は……きっと悲しい思いをしたんです。何年も何年も悲しみに絡み取られる内に、こんな中途半端な化け物になってしまったんだと思います」
 彼は夕日に右手を翳す。
「けれど、僕はこの悲しい思いに後悔したくはないんです」
 彼はピアノの鍵盤に視線を落とし、右手で優しく撫でた。
 その姿は、
 まるで、絵に描いたように美しかった。
「それに、僕は君に会うことができた」
 彼は立ち上がる。
「君に会えて、僕は嬉しいよ」
 開け放たれた窓から、風が幾重も幾重も吹く。
「お願いがあるんです」
「……何ですか?」
 自分がどんな表情をしているのか、どんな声を出しているのかよく分からない。
「僕は、あの人から……僕の好きだった彼女から終わりを告げられるのなら、それを受け入れようと思っていました。
 けれど、今は少し違うんです。
 僕の先は元々長くはない。
 それなら、僕の好きなガーベラの花と共に葬ってほしいんです。
 君の手で」
 彼はポケットからマッチ箱を取り出し、ピアノの上に置く。
 彼が徐に窓に近づいていくと、風はいよいよ強くなる。
 吹き抜けたつむじ風に、私は目を瞑った。
 目を開いたとき、彼の姿はなくなっていた。
 いや、それは、元あるべき場所に戻っただけだ。
 私は徐に壁にかかった絵に近づくと、それを手に取った。

スポットライトを浴びるべきなのは、決してピアノではない。

彼はいつものタキシード姿で、絵の中のピアノに両手を滑らせていた。スポットライトを浴びた彼の姿は、今まで見たどの姿よりも美しかった―――


夕闇の中で、マッチを擦った。湿気ていたはずのマッチはなぜだか一発で火が灯る。
ガーベラの花畑の真ん中で、絵とともに火を放つ。
赤々と燃える火を見ながら、ああ、私はあの人のことが好きだったんだと思った。
これが私の初恋だったんだと思った。
胸の中で抑えていた感情が、火を消してしまおうとするかのごとく溢れ出す。

悲しい歌は必要ですか?
悲しい物語は必要ですか?
今私が流している涙は、流さないで済むのなら、そうあるべきものじゃありませんか?
私には、答えが分かりません。
けれど、
 私も、
 あなたが好きだったことを、
 こんなに大声で泣いたことを、
 後悔したくはありません。

 火はいつまでも、いつまでも赤く燃え、私の耳元ではピアノの音がいつまでも響き続けた。


















エピローグ

 彼女のことを意識し始めたのは、一体いつからだろう。
 彼女に見つめられる内に、見つめ返していたのはいつからだろう。
 僕は、感情を持った。
 君に恋をした。
 君の見つめる姿が、
 後ろに見えるガーベラの花が、
 一枚の絵のようで僕は好きになった。

 話しかけたい。
 君に触れたい。
 なぜ、僕には何もできない。
 それは決して叶わない。
 ただ、僕は彼女のそばに居たいだけなのに。

 時は過ぎていく。
 君は僕を見つめてはくれなくなった。
 あの調律師のことばかりだ。
 そして、君は外に出て行く。
 あんなに外を嫌っていた君が、この洋館から出て行く。
 もう、僕のことなんて忘れてしまって……

 時が過ぎて、全ては古くなって、
 やりきれない僕の思いは、やりきれないままに、
 僕は絵の外へ飛び出すようになった。
 変わらないものは、君の好きだったガーベラの花だけ。
 僕が楽しみにできるものは、その花が咲くことだけ。
 もし僕に終わりが来るのなら、このガーベラの花と共に終わりを迎えたい。

 また長い時が過ぎて、白い帽子を被った君が突然やってきたから、
 僕は君が帰った後でピアノを弾いた。
 君のことを少しでも引き留めておきたくて。
 僕のことに気付いてほしくて。
 必死に弾いた。
 そしたら、思いもよらず女の子がやってきて、
 僕は慌てて絵の中に隠れていた。
 女の子が僕の隠れている絵に近づいてくる。
 絵の中で様子を伺いながら、もしも、今僕の姿を見られてしまえば、この子の前には二度と出て行けなくなるだろう、と思った。
 僕はあの頃とは違うのに。
 きっとこの子に、話しかけることも、触れることも、そばに居ることもできるのに。

 僕はまた、この狭い額縁の中からこの子を眺めるだけなんだろうか?
 僕が、今「居たい」場所は……

 思いがけず窓から風が吹き抜ける。
 僕は同時に絵の外に飛び出した。

 額縁のない世界で、僕はどんな絵が描けるだろう。

分からない。

けれど僕は、この子との出会いを、決して後悔はしない。

「こんにちは、というべきなのかな?」
 僕は後ろから、君に話しかける。
「すいません! 勝手に入ってきてしまって……」
END

2013.6.20
『紫』第七号