誰でもない誰かのための歌

葛生 東

世界の終わりについて考える。
 きっとそこは静寂に包まれているだろう。空には太陽と月が同時に輝いており、朝と夜が同時に世界を支配している。雨と雪が大地を濡らす傍から、太陽がそこを乾かしている。
静かな世界には、君が歩いている。君の肌は黒く、または白く、そして黄色であるのだろう。君は男の子かもしれないし、女の子かもしれない。
 君は世界に一本だけ残った木の、太い幹に寄りかかり、歌をうたう。すでに曲名と歌詞は失われ、君の記憶に残ったあるメロディだけが、自然に口から溢れてくるのだ。
 木と君の他は何もない世界の間を、君の弱弱しく澄んだ歌声が縫っていく。
 徐々に小さくなっていく声と反比例するように、太陽の光は強さを増していく。天気は消滅し、月は飲み込まれる。君は思わず目をつむり、木の幹に顔をうずめる。最後の木は君を守りながらも、ゆっくり、ゆっくりと葉を散らし、根を腐らせ、君の歌を子守唄にしながら死んでいく。
 光は増していき、最後の木は完全に消滅する。そして君の歌が止まる。光が世界の全てを占め、やがて失われていく。
 これが世界の終わりだ。
 
♪ハッピー・ソング♪
 
ピンク色の雪を見ることが出来たものには、幸せが訪れる。
 そんな噂が、僕の通う大学に流れたのは、秋の終わり頃だった。
「私が小学生だった時にも流行ってたな、そういうの。消しゴムに好きな人の名前を書いておいて、誰にもばれずにそれを使い切れたら恋が叶うとか」
 彼女はそう言った。僕も大体同じ考えだった。つまり、マスクをつけた髪の長い女が「わたし綺麗?」と聞いてきたら、「ポマードポマード」と叫びながら逃げなくてはいけないだとか、童謡「さっちゃん」の四番の歌詞を聞いたものは、斧を持ったさっちゃんに足を切られるだとか、そういう類の話は小学生のうちに卒業するものだと思っていたのだ。
 しかし、ピンクの雪の噂は、大学中に瞬く間に広がっていった。やがて冬になり、初雪がキャンパスに降る頃にはピンクの雪を見るために、何人もの男女が躍起になっていた。もちろん、そんな噂を本気にしている人間はいなかっただろう。彼らは、雪を探すという行為を通して、間接的に幸せを探していたに違いない。
「幸せなんて形のないものを探すってのが、大体不可能なんだよね。そんなものを探すより、幸せの定義を変えてしまって、今自分の置かれている状況こそが幸せなんだって考えてしまった方が、どう考えても効率的だよ」
 だから、私は今幸せなんだよ。そう言って彼女は笑った。雪なんか融かしてしまいそうな、太陽みたいな笑顔だった。
 実際に彼女は太陽だった。僕と彼女が所属しているゼミでジェンダー論を扱った時、彼女は他のゼミ生達と得意になって話していた。
「『原始、女性は太陽であった。真性の人であった。今、女性は月である』って言うけど、今は真逆だよね。つまり、私たち女は、もう一人でも輝くことは出来る。でも男は女の子がいないと輝けない。女の子がいるから輝けるって言った方が正しいのかな?」
 ゼミ生達は笑いながら僕の方をちらっと見た。その時にはもう、僕と彼女は恋人同士だったのだ。遊園地に行った時も、水族館に行った時も、誘ったのは彼女の方だった。
 僕は彼女について歩き、彼女の話を楽しんだ。彼女は聡明で、自分の意見をしっかりともっていた。正直、彼女と遊ぶ場所なんてどこでもよかった。彼女がいて、その話を聞ける場所であれば、どこでもよかったのだ。僕たちのシステムは彼女を中心に回っていた。だから彼女は太陽で、僕は月だったのだ。
 クリスマス・イブは彼女の提案で、海へ行った。町だと人が多すぎて、ゆっくり話せないから。それが彼女の言い分だった。彼女は僕に紙袋を手渡した。開けてみると、それは紺色のマフラーだった。
「クリスマスにマフラーとかあまりに定番だけど、あえてそこを狙ってみるのもいいかもって思ったから」
 手を口に添えて微笑む彼女は、とても美しかった。僕は彼女へのプレゼントを用意していなかった。町に出て買えばいいと思っていたからだ。
「なんとなく予想はしてたよ。君はいつもそうだからね。……まあ、別に形として残るプレゼントじゃなくても、私は構わないんだよ?」
 冷たい風が僕たちの頬を刺す。僕たちの距離は自然と近くなる。こんな冬に、僕を海へ連れ出した彼女の、本当の考えがなんとなくわかった気がした。けれど、本当にそれが正解なのかわからない僕は、黙って座っていることにした。時間だけが過ぎ、僕たちの間には長い沈黙が降りて来た。
「やっぱり君はそうなんだね」
 しばらくしてからぽつりとそう呟いた彼女の顔は、ひどく寂しそうだった。

 それから大晦日が来て元旦が来て正月休みが来たけれど、僕たちは一回も顔を合わせなかった。お互いに忙しかったし、何より彼女が会おうと言ってこなかったからだ。久しぶりに彼女を見たのは大学が始まってからであり、彼女の隣には僕ではない男がいた。
 皮肉だと思う。太陽だった頃の彼女より、月になった彼女は綺麗だった。一年付き合ってきて、僕は彼女が相槌を打つ姿を見たことがなかった。何も語らずただ、こくん、と頭を上下させるだけの動作。僕はそれすら彼女から引き出すことは出来なかったのだ。
 僕ではない男は、ゼミ生の一人だった。彼と仲良く話す彼女を見た他のゼミ生は、僕に対して疑問と同情と好奇心をたくさん含んだ目線を投げかけて来た。
 今となって思えば、彼女のその行動は僕に対する当て付けだったのだろう。
 大学に行き辛くなった二月上旬のある日、僕はピンクの雪を見た。
 それは都市伝説なんかではなく、実によくある話だった。前日に降った雪が固まり、氷となった道路に、トラックがハンドルを取られたのだ。
 コントロールを失ったトラックの先に、一組のカップルが歩いていた。猛然と迫りくる鉄塊の前に、人間は無力だった。派手な衝突音とともに、一瞬にして彼女たちはただの肉塊になってしまった。
 その現場を僕が見ていたのは、ただの偶然だ。たまたま外出した時に、たまたま二人を見つけただけなのだ。衝撃で巻き上げられたピンク色の雪が、僕の頭上に降ってきた。近くには、肉片のようなものが散らばっていた。
 僕はピンクの雪で肉片を包み、ぎゅっと握って玉を作った。そうしてそれをトラックの荷台に向かって思い切り投げた。のっ、という間抜けな音とともに、雪玉ははじけ飛んだ。
 僕は幸せだ。これでまた、気負いなく学校に通うことが出来る。もう、相槌を打つ彼女を見ることもない。もう、眠れないなんてことはなくなるはずだ。
 僕は、紺色のマフラーをいっそう強く首に巻きつけた。空からは真っ白な雪が降り始めていた。柔らかくふわふわとした雪が僕の顔で溶け、涙のように頬を伝った。

♪サイケデリック・ソング♪

鼻歌を歌いながら、僕は考える。
月の光は何色だったろうか。
黄色、か。幼いころ夢中になっていた塗り絵を思い出す。真っ黒いキャンバスに散りばめられた星や月は、確かに黄色であった。いや、事実黄色いのはクレヨンではなかったか。あのクレヨンはたかだか十二色しか描けない、十二色の世界をぐるぐる回るだけのクレヨンだった。そうだ、あの塗り絵の月は塗り絵でしかないのだ。ならば、地球の周りを滑るあの月は、黄色ではない。
では、白か。白色のクレヨンはない。うん、白色。上品じゃないか。例えば、藤原定家が愛したのは、他の何でもない、月の白さではなかったか。ベートーヴェンのソナタは白だ。太陽が躍動する生命の赤ならば、対をなす鎮魂の月は、優しい白に違いない。雪は白い。同じく冷たい月の光も、白に違いない。
待て、月にはうさぎがいるのではなかったか。うさぎは白だ。丸くなるとふわふわしていて、いや、事実ふわふわの下には野生の生物たるに不可欠な肉や骨が在るには違いないが、しかし僕の中ではどこまでもふわふわしていて、押すとほんのわずかな抵抗がある、そういう生き物であるはずだ。
もし、月が白かったら、そこに住むうさぎが見つかるはずはないだろう。白色の微妙に異なったうさぎだったのだろうか。そんなはずはない。白と黒は極彩色の世界にあって、唯一、いや唯二完全な色のはずだ。
混沌たる自然の中で、白と黒は完全な秩序でなければならない。無から、いきなり有が生まれないように、混沌が急に口をつぐんで秩序を生みだすことなどありえない。
月も白、うさぎも白。ならば触れでもしない限り、うさぎがいることなどわからないではないか。月は天高くあるのだ。ならば触れるはずもない。つまり、白でもない。
簡単な方法を思いついた。空を見上げればよかったのだ。
ぐあ、と空を見上げる。昼までの雨が嘘のように、空は澄んでいた。
ぐるりと視界をめぐらすとそれはあった。漆黒の中にほとんどまぎれるようにして、すすけた月があったのだ。
月は、こげ茶色だった。

「月がチョコレート・ムースに包まれました」
右手の民家の中から、興奮したニュースキャスターの声が聞こえてきた。窓を開け放しているのだろう。心地よい夜だ。
「NASAの発表によると、アメリカ時間で本日午前八時頃、ワシントンD.C.上空に、空を覆うほどの未確認飛行物体が現われ、その中の一機がホワイトハウス前に着陸したとのことです。その後円盤からは、人型の生命体が現われ、大統領への面会を要請……」
キャスターは大きく溜息をつき、間を空けた。
「……一人のSPが、周囲の制止をふりきり生命体に向かって発砲しましたが、銃弾は体をすり抜け背後の飛行物体にあたり、それを見た生命体は意味不明な言語を叫びながら、周囲の見物人を惨殺。大統領に一言つぶやいた後、姿を消してしまったとのことです」
 音量が大きくなった。おそらくテレビには大統領が映り、生命体からの言づてを伝えようとしているのだろう。
興味がないので歩きだす。きっと何か恐ろしい恨みごとがあって、生命体は月にチョコレート・ムースを塗りたくっていったのだろう。
困ったことをしてくれたな、と思った。月の色がわからなくなってしまった。
今の茶色の月もおいしそうでいいけれど、僕が知りたかったのは昔の月の光だ。十五夜に見ていた、あの月だ。
本屋に立ち寄り天文学コーナーで、宇宙に関する本を手に取った。店内は閑散としている。きっと人々はテレビにかじりついているのだろう。未知なものは怖い。しかし既知なものも怖い。本当に自分の認識が正確なのか、常に不安にさらされるからだ。
本のページをめくっていくと、丸い月が眼前に現れた。
しかし、すぐに違和感が襲ってくる。
月はこんな色ではなかったはずだ。まして、こんな形でもなかったはずだ。僕の心に映る月はもっと優しくて、涙が喉の奥から湧いてくるようなものだった。
わかった、これは印刷されているインクにすぎないのだ。インクならば白も表現できる。クレヨンのような、十二どころではない世界を踊れるのだ。これも本物の月ではない。紙に書かれた、月なのだ。どのページをめくっても、どれだけめくっても本物の月は顔を出さない。
本を棚に戻し、外に出た。そして、空を見上げた。チョコレート・ムースに飾られた月がある。世界は静かだ。もう、本物の月は、二度と見られないだろう。
月やあらぬ、とつぶやいた。
そうして、茶色い月のうつった水たまりを見つけ、なめた。
チョコレートの味がすると思ったのだが、まるで無味であった。

♪アンニュイ・ソング♪
 
大学へと続く通学路の途中に、奇妙な植物が生えていた。
 いつの間にそこにあったのかは分からない。気が付いたら、それはそこに存在していた。これほど奇妙なものが道端にぴょんこと生えていたら、誰かしらが話題にしていてもおかしくないはずである。なのに、誰も話していないのは何故だろうか。ここの人通りが少ないというのもあるだろうし、そもそも僕が人の話に興味を抱かないというのが大きいのかもしれない。
 とにかく僕は誰にもばらすことなく、その植物を育てることに決めた。
 奇妙な植物はとても奇妙だった。膨らんだつぼみが頭に、それを包むような葉が手に見えた。模様には目があり、鼻があり、口があった。僕には、その植物が人間のように見えたのだ。
 僕は子どもを育てるように、その植物に丁寧に接した。水だけではなく、栄養剤を買ってきて与えたり、防虫ネットで植物を囲ったりした。雨や雪や風が酷い日には、ペットボトルで作った防御壁で、植物を守ったりもした。植物が大きくなり、つぼみの外側に見えていた模様はどんどん薄くなっていった。どうやら内側へ内側へ移動しているらしい。きっと花が開く頃には、もっと人間らしい顔を覗かせてくれるに違いない。
 僕は大学や家にいるより、もっと長い時間を植物と過ごすようになっていた。
「今日大学でゼミの発表があってね、もっとちゃんとやれって怒られちゃったよ」
「月が綺麗だね。やっぱり街中よりこっちの方が空が澄んでるね」
「また学校で陰口を叩かれたよ」
「僕ね、女とか男とか友達とか、そういうのどうでもいいんだ」
「君が本当に人間だったらいいのに」
 とりとめのない話を、僕は植物に語って聞かせた。植物はチョコレートが好きだった。というのも、僕は色々な物を植物に与えていた。オレンジジュースだったり、ミキサーにかけたハンバーグだったりだ。その中でも、溶けたチョコレートを根元に注いだ次の日は、植物の葉がつやつやしているような気がした。それからは、水とともに少しのチョコをあげている。風に揺れる植物は、喜んで踊っているようにも見えた。
 毎日のように、僕は植物に会い、話し、一緒に眠ったりした。植物と話したい一念で、五十音を一文字ずつ、ゆっくり発音してみたりもした。
 僕はすっかり、その植物に恋をしていた。
 月日は過ぎていき、植物はどんどん成長していった。始めは十数センチしかなかった背丈も、今では僕の腰くらいの高さになっている。座って話すとき、僕は少し植物を見上げるようになっていた。僕は植物に、わらで作った服を着せた。とても似合っていた。
 四月の温かい陽気の中、僕は植物の隣で昼寝をした。もう大学には行かなくなっていた。何かが頬に触れるような感触がして、ぼんやり開かれた僕の目に飛び込んできたのは、満開に開いた植物の花だった。花弁は鮮やかな紅色で、おしべは薄黄色。そして、めしべがあるべき位置には顔があった。
 顔は泣いていた。
「どうしてぼくに言葉を教えたの?」
 事実、僕は少しまどろんでいた。囁くように僕の耳に飛び込んできた声は、風の音か風が植物を薙ぐ音だったのかもしれない。しかし、その時の僕には、その植物の声にしか聞こえなかった。
「言葉なんか知らなければ、感情を知ることもなかったのに。あなたがぼくを育てなければ、ぼくは人知れず枯れていただけだったのに」
 僕は声が出なかった。半分夢の中にいたからだ。春の風は、今にも僕を眠りの世界に誘いそうだった。
「ぼくはもう成長しきってしまった。折り返し地点に来てしまったんだ。あとは枯れていくだけ。あなたは馬鹿だ。ぼくなんかより大学の友達を選ぶべきだったんだ」
 眠さは限界だった。強めに吹いた風が植物を大きく揺らし、開いた花弁が僕の唇に触れた。糸が切れるように、僕の意識はそこで途切れた。

 目が覚めると空は暗くなっていた。植物を見ると、花弁がしおれている。顔のあった位置には、おしべと同じ薄黄色のめしべがある。やはり、あれは夢だったのだろう。鞄の中に入れたままですでに溶けてしまったチョコを根元に注いで、植物へ別れを告げ、僕は家へと帰っていった。
 それから、植物は今までの逆再生のように、見る見る小さくなっていった。僕は一生懸命栄養剤を与えて、新しい服を着せて、声で励まして、チョコレートを食べさせた。けれど、植物がまた大きくなることはなかった。綺麗な緑色はだんだんと変色して、茶色くなっていった。
 ある日、いつもより少し高めのチョコをもって植物のところに行くと、植物は踏みつぶされていた。すでにぼろぼろだった葉はぐしゃぐしゃに千切れ、茶色い茎は折れ、しわしわの花弁は取れてしまっていた。
 きっと誰かがこの道を通ったのだろう。始めに出会った時よりももっと小さくなった植物に気付かず、踏みつぶして行ったのだろう。僕は怒ったり泣いたりする代わりに、チョコレートを食べた。
 いつもより高いチョコレートは、いつもより少しだけ甘かった。

♪ラブ・ソング♪

 まだ僕であった頃の僕は、世界の折り返し地点に出くわしたことがある。
 そこでは不思議なことが起きた。それについて語るには、記憶を何週間か巻き戻さなくてはならない。無論時間という感覚を失った今からではなく、折り返し地点から、という意味だ。
 はじめの予兆は地震だった。それ以前にも、何かおかしな現象は起きていたのかもしれない。しかし、僕が確かな実感として、予兆と感じ取ったのは地震だった。震源はフィリピン沖。正確な大きさはわからない。あまりの大きさに情報が錯綜し、情報が確定する前に折り返し地点が来てしまったからだ。だから、とりあえずは人がたくさん死に、町が崩壊するような地震が起きた、ということにしておく。
 未曾有といっていいだろう災害に、世界は浮足立った。余震がたくさん起き、テレビは連日被害の状況を放送し続けた。あくまで当時の僕の感想だけれど、その地震が何かを決定的に断ち切ってしまったような気がした。それまで続いていた何か。淀んでいたかもしれないが、確かに色彩を持っていた何かを、だ。
 あるいは、まず僕自身について語るべきだったのかもしれない。僕という存在についてしばらく考えるのを辞めていたので、それを失念していた。今の僕は僕であって、僕ではない。私かもしれないし、俺かもしれないし、Iかもしれない。ともかく僕であった頃から僕と呼んでいたので、僕は自分のことを僕と呼ぶことにしている。
 僕は日本人だった。そして男だった。大学生だった。一人の女の子が好きだった。彼女が闇にのまれた時のことは、未だに記憶にこびりついて離れない。しかし、それはまた別の話だ。
 話を戻すが、その災害の波紋は当然のように日本へも到着した。大きな横揺れと縦揺れが、毎日のように続いた。活火山が噴火し、津波が人を飲み込み、大地が町を崩壊させた。人が人を殺し、生きる術を掠め取っていった。これは日本に限ったことではなく、世界中が混乱し、疲弊していたのだ。
 交通も政治も文化も生命も、すべての正常運転していたシステムは終わりを迎えた。
 テレビは砂嵐に代わり、何も映さなくなった。最後のチャンネルが電波を停止した次の日、東京の上空に闇が現れた。
 これが世界の折り返し地点だ。
闇は闇としか形容できなかった。空に穴が開いたというわけでもなく、煙のようなものが漂っていたというわけでもない。それは完全に闇だったのだ。闇は車も木も人もビルも、すべてを飲み込んでいった。すでに情報伝達メディアはその機能を麻痺させていた。この事実を知っているのは、つまり闇の存在を知っているのは、おそらく僕だけなのだ。
東京の大方を崩壊させた闇は、徐々に形を変え、しまいには女の子の形となった。
「女の子である必要はなかったし、東京である必要もなかった、もちろんあなたである必要もね」
 家や友人、家族を失い、無人の町をとぼとぼと歩いていた僕の頭の中に、くぐもった音声が聞こえてきた。女の子の声のようでもあったし、犬の鳴き声のようでもあったし、踏切の警笛のようでもあった。
「もうすぐ世界は終わりを迎える。いい? 私は決して神だとか秘密組織の兵器だとかではないの。実在としても、メタファーとしてもね」
 歩き疲れて木の幹に寄りかかる僕に、彼女(と呼ぶことにする)は話しかけた。
「私はある概念の総体。いいものの総体でもあるし、悪いものの総体でもある。すべての物質や現象は私であるといえるし、その逆もいえる」
「その総体が、なぜ人を殺すの?」
 僕の頭は朦朧としていた。永遠に近い時間を与えられた今ならまだしも、疲労が極限までに達していた当時の僕には、彼女の言っていることの半分もわからなかったのだ。
「勘違いしないでほしいのだけど」
 彼女はため息をついた。
「私は殺してなんかいない。私はただバランスを取っているだけなの。あの災害で、世界のバランスは狂ってしまった。つまり、総体としてのバランスがね」
「つまり、君はこの東京からものを消し去ることで、バランスを取っている、ということ?」
「そう。ただ、別に東京である必要はなかったの。例えばアメリカでもよかったし、ボリビアでもよかった」
「なのに君は東京を選んだ」
 僕の前に降りてきた彼女は、少し悲しそうな顔をした。実際はまだ空にいたのかもしれない。ただ、さっきよりも声ははっきり聞こえたし、顔もはっきり見えた気がした。
「私が飲み込むことで、世界は平衡を保っている」
 自分の行いを正当化するように、彼女は言った。
「だけど、君はさっき、世界は終わりを迎えるといったね」
「そう。一度ほつれた世界は、もう直ることはない。あの日の災害は、私が繋ぎ止めていたものを、決定的に断ち切ってしまった。今の私にできるのは、バランスを保って、終わりをゆるやかにすることだけ」
 弱った僕の目には、彼女もまた弱っているように見えた。
「しかし、君は弱っている」
「そうなの。おそらく私はもう消える。だから、あなたに私の役目を引き継いでもらいたい」
 僕はいやだと思った。わけのわからない役目を負わされるのもだし、彼女が消えてしまうのも、だ。僕はそれを訴えた。
「あなたが役目を負うことも、私が消えることも、もう選択されたことだから。これは朝の次に昼が来るくらい絶対的なことなの」
 彼女の目に安らぎの色が浮び、そして彼女は僕をやさしく包んだ。
「私はあらゆるものの総体だから、あなたの母であり、恋人なの。いい? 私が消えたら、世界のあらゆるものは失われる。だけど、あなただけは残る。時間も空間も失われ、損なわれた世界で、あなたという意識だけがほとんど永遠に存在し続ける」
 僕の目からは涙があふれてきた。彼女の体に、僕は全身をうずめた。
「永遠って、いつまで?」
「もちろん、世界が終わるまで」
 子供を諭すように、あるいは恋人に睦言を呟くように、彼女は言った。
「けど、僕はバランスの取り方を知らない。何もなくなった世界で、どうやってバランスを取ればいいの? 一体なんのバランスをとるというの?」
「無とのバランス」
 僕を包む彼女の感触が、だんだん薄くなっていく。声が小さくなっていく。
「世界の終わりは無音なの。おそらくだけど。だから、あなたには歌をうたい続けてほしい。この世界が生まれてからずっと、この世界に流れていた歌を」
「そんな歌、僕は知らない」
 僕は、ほとんど叫び声をあげていた。
「私は消える、だけどそれで全てが一斉に消えるわけではない。ゆるやかに、段階的に全てが消えていく。これから先の世界では、何かが新たに生まれることはない。いうなれば私が消える今、ここが世界の折り返し地点」
 彼女の感触が完全に消える。
「歌は私が教えてあげる。一度だけしか歌わないからしっかり覚えてね」

 彼女が最後に口ずさんだメロディを、僕は歌い続ける。すでに時間が失われ、光と僕と空っぽの大地だけとなった世界で。きっともうすぐ世界は終わる。僕にはそれがわかる。体が徐々に壊れ始めているからだ。
 光は日に日に強くなっていく。時間が失われた世界では「日に日に」という言葉は何の意味も持たないのだけれど。死ぬこともできない世界で、僕は歌い続ける。何度も諦めようと思ったけれど、彼女の顔を思い浮かべて何度もとどまった。
 自分自身の声が、弱くなっていくのがわかる。
 もう一度、闇が見たいものだ。
 光は容赦なく強くなっていく。

2013.5.18
『紫』第七号