青空の彼方、向日葵の夏

神籬 薙

 六十八年前の今日も、空はどこまでも透き通る様な青一色だった。それは日本がまだ世界を相手に戦っていた頃の記憶。当時の日本はミッドウェー海戦の敗北を引きずったまま後退し、いよいよ沖縄が陥落、本土まで米兵が迫っているというまさに敗戦の瀬戸際に踏み止まっていた。そんな折、開始されたのが爆薬を飛行機に積んで敵艦隊に体当たりする特別攻撃隊、所謂特攻隊だった。若者たちがその命を自ら捨てて行く攻撃は狂気としか言いようがなかった。戦争は人間を狂わせる。そこに善悪正誤の基準は存在しない。誰もが自分の守るべきもののために戦った。
 そんな世界で、人の思いはどこまで届くのだろうか。出来ることならこの青空の彼方へ消えて行ったあの人に、私の思いが届くことを願ってこの物語を書き始めよう。


 日本が世界を相手に戦争を始め、いよいよ負け始めた頃、私は東京神田にある小さな古本屋で働いていた。家族は両親と二つ違いの兄と弟がいたが、東京帝国大学医学部の弟以外の男手はみな戦争に行き、私は父と縁のあるこの古本屋に出稼ぎをしていた。当時の出稼ぎというのは泊まり込みで働く丁稚奉公だった。店主の山田さんは白髪の美しい紳士で、戦時中にも関わらず敵国の素晴らしい街並みや風俗について聞かせてくれた。同僚はおらず、山田さんも奥さんに先立たれて一人だったが寂しい思いはしなかった。私にとってはこの小さな古本屋が、第二の家と言ってもよかった。
 蝉の声がうるさい初夏のある日、私は店の前の道に打ち水を行っていた。店は狭い通りにあり人通りが少なかったこともあって、私は鼻歌を歌いながら夏の容赦ない陽射しに焼かれた道路に水を撒いた。店の向かいには三方を家の塀に囲まれた向日葵畑があった。すぐ近くに流れている小川から水を引いているが、管理者はとっくに亡くなってしまっていたため水やりは私の仕事だった。もうすぐ満開の向日葵が見られる。
 昔から楽しいことを考えると私は無口になってにこにこと一人で笑う癖があった。友達からは奇妙に思われた癖だったが、楽しいことは口に出すと逃げてしまう、終わってしまう、そんな気がして私はなかなか何が楽しいのかを言い出せなかった。
 その時も、満開の向日葵を見ている自分を想像して私はにこにこしていた。そのせいで注意力が散漫になっていたのだろう。道路に人が歩いて来ていることなど全く見えていなかった。
「うわっ!」
「えっ?」
 突然の大声に、私は水を撒く手を止めて声のした方を向くと、そこにはワイシャツに学生ズボンの若い男の人が立っていた。しかもワイシャツがびっしょり濡れている。汗でないのは明らかだった。
「す、すみません!」
 私はとっさに頭を下げた。
「いや、こっちこそすまなかった」
 何故かその男の人は謝ってきた。だが、明らかに悪いのは私だったためもう一度私は謝罪を口にする。
「いえ、考え事をしていた私がいけなかったのですからどうか謝らないで下さい。申し訳ありません!」
 すると、男の人は困った様に笑った。
「ははは、実はあなたがあんまり楽しそうに鼻歌を歌っているから話しかけ辛かったんだ。ちょうどよかった」
 私は恥ずかしさに頭を上げることが出来なかった。多分暑さのせいじゃない熱で顔は真っ赤。今すぐにでも逃げ出したいほどだった。
「す、すみません……」
「そんなに気を落とさないでくれ。僕もこの暑さにはうんざりしていたからな。それで、店に入ってもいいかな?」
 私は何とか目線を上げたが、男の人の本当に爽快そうな笑顔を見て、すぐに目線をそらした。
「そ、それでしたらあの、服をお預かりします」
「おっと、こんなにびしょ濡れじゃ失礼だな」
「すみません」
「いや、そんなに謝られるとこっちも困るから……よっと!」
 男の人はいきなりワイシャツを脱いだ。
「きゃっ!」
「ははは、でも替えがあるから大丈夫だよ」
 そういう問題ではなかったが、ひとまずその場は収まった。私は男の人のワイシャツを洗濯かごに入れて定位置の会計カウンターについた。椅子に座って読みかけの本を開く。外に出るとあれほどうるさかった蝉の声が、店内で聞くとぴったりの音楽に聞こえるのだから不思議だ。
 だが、困ったことに本の内容は全く頭に入ってこなかった。私は例の男の人が気になって仕方がなかった。
 横目でちらちらと男の人を盗み見ると、彼は真剣に古書の棚で何かを探していた。私は声をかけようか迷ったが男の人の出す空気はどこか人を寄せ付けないものがあり、話しかけることは出来なかった。
 それから三十分程経った頃、男の人が目当ての本を私のもとに持って来た。それは『青空の城』という鷲田幸一作の文庫本だった。保存状態が良く恐らくまだ誰もページを開いていない。前の持ち主は一度も読まずに売ったようだ。
「鷲田さんの作品が好きなのですか?」
 私は心の中の勇気をすべて振り絞ってそう問いかけた。
「いや、これが初めてだ。だけど、この本だけはいつか読みたいと思っていた」
「そうですか。よかった、読みたい人に巡り会えてその子も幸せでしょう」
 私はなんだか嬉しくなって笑顔になった。
「……」
 そんな私を男の人は無言で見つめていた。彼はまるで時間が止まってしまったかの様に呆気にとられた顔をしていた。もしかしたら私の言ったことが気に障ったのかもしれない。
「す、すいません。私、なんだか嬉しくて、それで……」
「い、いや、僕こそ申し訳ない……あなたは、向日葵みたいに笑うんだな」
 今度は私が固まる番だった。男の人は会計を済ませ「また来ます」と言って帰って行った。私はただ呆けたまま椅子に座っていた。その日はまったく仕事が手につかなかった。

 それから一週間が経った。日を追って大きくなる太陽が、本格的な夏の訪れを実感させた。男の人の名前を聞いておかなかったことを後悔しつつ、私は幼い頃に読んだ自分の『青空の城』を再び開いていた。それはこんなお話だった。
 一人のパイロットが美しい絵描きの娘に恋をする。娘はだんだん目が見えなくなるという病気を抱え、治る見込みはなかった。最後に青空に浮かぶ城、積乱雲を描きたいと言う彼女を連れてパイロットは空を飛ぶ。それは法律違反の飛行だった。空の上で彼女は絵を描き上げた。そして二人は青空の彼方へ消えていった。
 その後のことについて一切言及がないこの作品はその後の展開を巡って様々な予想がなされた。だが、作者は死ぬまでその後について何も言わなかった。ただ一言、続きがあるということだけを除いては。
 
「大丈夫ですか?」
「へっ? あっ、すす、すみません、私……」
 物語の先について考えるあまり私はお客さんの呼び声を無視していたらしい。慌てて声の方に向き直るとそこには先週の男の人が立っていた。
「あんまり集中しているから声をかけようか迷ってしまった」
「……すみません」
 男の人は笑っているが私は恥ずかしくてしょうがなかった。
「あなたはいつも謝っているなあ」
「そ、そうですか?」
 そんなに謝っていただろうか。
「それで、これを」
 男の人が出した本は『飛び立つとき』という吉田ちえ作の短編だった。たしか飛行機乗りの伝記だったはずだ。本の状態をチェックして値段を口にすると、男の人はどこか改まった態度で言った。
「……あなたの名前を教えて欲しい!」
 男の人がいきなり大声になったので、私は驚いて「ひっ」と悲鳴を上げてしまった。
「お、驚かせてすまない」
「いえ、あの……」
 私はとても悪いことをしてしまった気がした。また謝罪の言葉が口を突こうとした時だった。
「僕は吉沢一雄。大日本帝国海軍少尉だ」
 私の前に男の人、吉沢さんの手が差し出された。その手は軍人さんらしい力強いがっしりした手だった。
「川狩、薫です。あの、よ、よろしくお願いします!」
 私は咄嗟に吉沢さんの手を握り返した。彼の大きい手に、私の小さい手の平はすっぽりと心地よく収まった。

 それから吉沢さんは三日に一度はお店にやって来た。何かを買っていく日もあれば、何も買わず私と話すだけの日もあった。だけど、二人の間には無言の約束があった。吉沢さんがお店に来るのは私が向日葵に水をあげる九時ぐらいだった。そして二人して店に入って私は読書、吉沢さんは目当ての本探しに移った。私はいつも本に集中することが出来ず吉沢さんの方をちらちらと盗み見ていた。時たま目が合うと、吉沢さんはちょっと照れたみたいに微笑んでくれた。私はその笑顔が大好きだった。
 ある日、あまりの暑さに麦わら帽子を被りつつ、いつものごとく向日葵に水をあげていると吉沢さんがやって来た。
「おはようございます」
「やあ、おはよう」
 吉沢さんはそう言って向日葵畑を見回した。
「そろそろ咲いてくる頃だね」
「そうですね、八月に入るまでには」
 私は被っていた麦わら帽子のつばを持って少し前が見えるようにした。吉沢さんと目を合わせてあの笑顔を見たいと思ったから。吉沢さんは私の方は見ずに口を開いた。
「ところで薫さん……」
「はい、何でしょうか?」
 いつもは歯切れよく喋る吉沢さんだが、今は何だかそわそわと落ち着きがなかった。
「明日は……お休みですか?」
「はい、そうですけれど」
 一体どうしたのだろうか。吉沢さんは大きく深呼吸をしてから私の方を向いて言った。
「もしよかったら、僕と……喫茶店でコーヒーでもどうですか」
「え……」
 私の思考は停止した。蝉の声だけがやけにうるさい。
「本当に、ご迷惑じゃなかったら」
 吉沢さんと目が合った。
「はい」
 私は自然に頷いていた。
 吉沢さんは嬉しそうに微笑むと、来た道を走って帰って行った。彼が軍服姿だったことに気が付いたのは大分経った後だった。もしかしたら訓練中、私に会いに来てくれたのかもしれない。停止した体を動かしながら私の思考は明日へ飛躍した。山田さんの話によると私は一日中にやにやしていたらしい。にこにこでなくにやにやというのが少し引っかかった。もしかしたらこれが山田さんなりのジョークなのだろうか。

 眠れない夜の後、私は麦わら帽子を被って出かけた。戦時下に贅沢な格好は出来なかったが、ちょっとでもお洒落をしたくて薄く化粧もした。
 喫茶店といっても当時は物資が不足していたのでまともな注文はまったく出来なかった。私たちは窓際の席に着いてコーヒーを注文した。当時のコーヒーは代用コーヒーというもので大豆や百合根をもとにしていた。
「なんだこれは? これでコーヒーだというのか……」
 吉沢さんはそう言って飲んでいたが、私はコーヒーを飲んだことがなかったので味はよくわからなかった。そもそも生まれて初めてのデートに緊張していたのでコーヒーの味にまで気が回らなかった。そんな私の心中を察してくれたのか、吉沢さんの方から話しかけてくれた。
「実は僕、飛行機乗りなんですよ」
 当時の日本に空軍は存在せず、陸軍と海軍にそれぞれ飛行機の部隊が存在した。吉沢さんは懐から白黒の写真を取り出して私に手渡した。四人の同僚と敬礼をしながら写真に写る彼に、少しだけ見とれた。
「かっこいいです。みなさんとても」
 私が感想を言うと、吉沢さんは少し照れた様に笑った。そして写真に写る面々について一人ずつどんな人なのか教えてくれた。そのうちの半分はもう、この世にいないということも。
「彼らは偉大です。僕もいつか彼らの様に笑って逝きたい」
「そんな……」
 私は吉沢さんになんと言うのが正解だったのだろうか。たくさんの言葉が浮かんでは消えた。どれも薄っぺらな言葉になってしまうという確信があった。結局、私は何も言えずに目線を下げたままだった。吉沢さんはそんな私を見て焦った様に切り出した。
「暗くなってしまったな……ええと、あなたはどこの生まれですか?」
 夏の陽射しの様な笑顔を見せる彼はどこまでも優しかった。彼の優しさに甘えることはとても心地よく、私はつい甘えてしまった。
「……茨城です」
「ほう、僕の伯父も茨城ですよ」
「えっ、茨城のどこですか?」
「えーと、確か……」
 そんな風に、私たちの会話は再び動き出した。吉沢さんと話をするのはとても楽しくて、時間が経つのを忘れてしまった。結局、私たちはそれから何時間も話し込んでいた。

 帰り道、聖橋を渡りながら吉沢さんは言った。
「また誘っていいですか? 訓練がない日は自由なんです。遊びで飛行機を飛ばす余裕も我が国にはありませんし」
 目線を合わせず吉沢さんはそう言った。私は彼の隣を歩いているだけで幸せだった。断るはずはなかった。

 向日葵の花が半分ほど開いた。夏の暑さはいよいよ隆盛を極め、私が吉沢さんと出会ってから一か月が経とうとしていた。
「今日はお知らせしたいことがあります」
 いつもの喫茶店のいつもの席、コーヒーを頼んですぐ、吉沢さんはそう言った。
「なんですか?」
 向かいに座る彼は真剣な目で私を見た。何か大事な話らしい。だが、私は恥ずかしくてその目を見つめ返すことが出来なかった。
「実は九州へ行くことになりました」
「九州、ですか?」
 九州という言葉の響きは私にとってあまり現実的ではなかった。
「ですから、これに」
 吉沢さんはそう言って机に紙切れを置いた。
「手紙を書きます。住所を教えて下さい。あなたと会えないことだけでも辛いのです。だから……」
「……分かりました」
 私はその紙に住所を書いた。あまりに突然の出来事で思考が追いつかなかったが、吉沢さんの真剣な態度に突き動かされた。
「ありがとう」
 吉沢さんは本当に嬉しそうだった。
「それから、明日の夜に新宿で縁日が開かれる。名前だけでたいしたものはないそうだが、もしよかったら」
 次々と発せられる予想もしない言葉に、私は身動きが取れなくなっていた。だが、縁日という響きはとても好きだったし、何より吉沢さんと出かけることが出来るのだ。私は頷いた。戦時下の縁日は安売りのセールの様なものだが、買い物が目的で行くのではない。それに、配給されない甘いものも食べられるかもしれないのだ。
 その後はいつものように本の話をして過ごした。帰りは吉沢さんが古本屋まで送ってくれた。その道中で私は九州行きの話を聞いてみた。どうやら飛行機の整備で行くらしい。八月の中頃には帰って来るとのこと。突然ですまないと謝る吉沢さんの表情が心に残った。
古本屋に帰って来た私は、楽しみで胸が張り裂けそうだった。今夜はきっと眠れない。そう思って布団を被った。
だが、眠れないという私の予感は悪い意味で的中してしまった。その夜、東京に敵軍による空襲が行われた。神田はどうにか被害地から外れたものの、弟と吉沢さんの安否が気がかりだった。店の前を人が通る慌ただしさの中、私に出来ることと言えば祈ることくらいだった。外出しては危険だし、例え外に出ても火の海を前に出来ることはないだろう。しばらくして、玄関が開いて山田さんが入って来た。
「川狩くん、弟さんはご無事だそうだ」
 店を私に任せて出ていた彼がそう教えてくれたのは東の空がだいぶ明るくなってきた頃だった。遠くで上がっている火の手を食い止めに再び山田さんは店を出て行った。私は一人薄暗い店内に取り残された。
 いつもは親しげな古本たちが、今だけは私を仲間外れにしている気がした。孤独と恐怖に押し潰されそうだ。誰でもいいから傍にいて欲しい。カウンターに突っ伏して私は泣き始めた。
 その時、店の扉がガラガラと一気に開け放たれた。
「……誰?」
 涙でよく見えないが、誰かが真っ直ぐにカウンターに向かって歩いてきた。私は気力を振り絞って立ち上がり、カウンターを出て影の人物と向かい合った。見覚えのある背の高さ。
「あ、あの……」
 弱弱しい私の問いかけに、心底安心した様な声が返ってきた。
「薫さん、よかった……」
「吉沢さん……っ!」
 私は彼の名前を叫んで、そのままその大きな胸に飛び込んだ。
「か、薫さん?」
 私を受け止めながらも吉沢さんは困惑していた。いきなり私が抱き着いたからだろうか。
「吉沢さん、吉沢さん……吉沢さん」
 だけど、あまりに取り乱した私を見て逆に落ち着いたのかもしれない。
「……大丈夫、ここにいます」
そう言って優しく私を抱きしめてくれた。私はそのまま吉沢さんの胸に顔をうずめて泣き続けた。自分でもどうして泣いているのか分からなかった。吉沢さんが無事だったからだろうか。孤独と恐怖が消えたからだろうか。分からない。でも、一つだけ確かなことは、私を無言で抱きしめてくれた吉沢さんの優しさに安心したということ。
その時私は心に決めた。九州から吉沢さんが帰ったら私の気持ちを伝えよう。生涯を共に送りたいと伝えよう。
泣き疲れた私をカウンター後ろの和室にそっと寝かせて吉沢さんは出て行った。
その後の話によると、吉沢さんのいた基地は空襲の被害を受けたが、彼は用事で別の場所に宿をとっていたため被害をまぬがれたらしい。そして基地に向かう途中に、道中にある古本屋に寄って、私の安否を確認したとのことだった。

空襲の影響で縁日は一日先に延期されたが、無事開催されることになった。下町を中心に焼夷弾が降ったため、新宿の被害はあまり大きくはなかったとのことだった。
集合場所は新宿の駅前だった。ワイシャツに制服のズボンといういつもの格好で吉沢さんはやって来た。私は青絣のモンペにブラウスという出で立ちだった。品不足の当時に絣模様のモンペは貴重だったので、大抵の家では食糧と交換してしまい残っていなかった。私が吉沢さんと出かけることを伝えると、山田さんが奥さんの遺品を貸して下さったのだ。
「誰かに履いてもらった方がいいでしょうからね」と山田さんは微笑んだ。そして敵国製の香水を少しだけ私にくれた。私は涙が出そうなくらい嬉しかった。
 吉沢さんの顔を見ると、彼の腕に包まれた温もりが思い出されて、私は緊張してしまったが、先を歩く彼の明るい声を聞いていると何だか元気が出てくるのだった。
縁日といっても売っているものは普段と変わらない。ただ、自分を、家族を元気付けようと少しでも明るく振る舞う参加者たちのおかげで盛況していた。
人混みに迷いそうになる私の手を、吉沢さんが優しく握ってくれた。
「僕から離れないように」 
 吉沢さんは照れたようにそう言うと、前を向いて歩き始めた。私はその手をしっかりと握り返した。そして彼の影に寄り添うように歩き始めた。
「はい、決して離れません」
 そう小声で答えて。

それから三日後、いよいよ吉沢さんが九州へ旅立つ日がやって来た。これからしばらくは文通になるが、私は寂しくなんてなかった。自分の心に決めた約束を果たして吉沢さんと家族になる。私の頭はそのことでいっぱいだった。
「それでは、行ってきます」
 疎開の団体で慌ただしい上野駅のホームで、吉沢さんは私に向かって敬礼した。軍服姿がとても似合っていた。
「はい。お待ちしております」
 今度は私もそう言って笑った。
「健やかで。店長さんと、あの向日葵たちによろしく伝えてくれ」
 吉沢さんの目には何かの決意が見て取れた。私は今度こそ目をそらさなかった。
「また会おう薫さん……あなたに出会えて本当に良かった」
 吉沢さんはそう言って、私に背を向けて汽車に乗り込んだ。ホームに残っていたのは私たちだけだったので、その瞬間汽車がゆっくりと動き出した。
 吉沢さんは振り返ってにっこりと、私の大好きなあの顔で笑った。


 数日後、古本屋に一通の手紙が届いた。差出人は吉沢さんだった。
「拝啓 薫さん
 お元気ですか。九州は夏の盛りを過ぎましたが、神田は今まさに盛夏を極めていることでしょう。
 聡明なあなたならもう感じているかもしれませんが、私はこれから帰らぬ任務に就きます。
 祖国のため、家族のため、そしてあなたを守るため、私は青空の彼方へ逝くのです。
 あなたと出会えたことは私の二十四年の人生で最高の幸運でした。全身全霊の感謝を込めてありがとうと言っておきます。
 空襲の朝、私はあなたを失う恐怖と孤独に苛まれた。あの時自分の本当の気持ちに気が付きました。せめて私の気持ちがあなたに触れた胸の内から伝わることを祈ります。
 上野駅でした再会の約束はどうやら果たせそうにありません。
 もし許してくれるなら、薫さんに私から頼みたいことがある。
 どうかあなたは未来へ向かって生きて欲しい。私は確かに生きていた。だが、あなたは私という過去に捕らわれてはいけない。
 明日の日本を守る強き女として誇り高く生きて下さい。
 そして願わくは新しい家庭を持ち幸せに生きること。
 初めて出会ったあの日、あなたは向日葵に水をあげていた。私はあの時、あなたの笑顔に惹きつけられた。水をかけられたのは、私があなたに見惚れていたからなのです。
 あの向日葵の花は咲きましたか。
 満開の向日葵をあなたと二人で見たかった。
 どうかいつまでもお元気で。いつまでも笑顔でいて下さい。
 満開の向日葵の様なあなたの笑顔を胸に私は青空へ飛び立ちます。

 最後に一つだけ我が儘を言わせて欲しい。
 薫さん、あなたに会いたい。あなたの笑顔にもう一度答えたい。

 青空の彼方にいるあなたを想って。
昭和二十年 八月 十日

吉沢 一雄 」
 
 その手紙を読み終えた時、涙が出たのかどうか、私は覚えていない。ただ、青天の霹靂とも言うべき手紙に思考のすべてを持っていかれたことは覚えている。私は愚かで、何も分かっていなかった。優しさに寄りかかっていただけの自分は、二度と取り返しのつかないことをしたのだと思った。
それから五日後、日本は終戦を迎えた。吉沢さんが青空の彼方へ消えた日、海からは二本の大きな煙が上がったという。

「最後まで私のことを愛しているっておっしゃらなかったのは、吉沢さん、あなたの優しさだったのですね」
 胸にしまった約束を思いながら私は古本屋から外に出た。これからの日本は変わっていくはずだ。二度と戦争など起こさない、そんな国に。吉沢さんが守った未来を私は生きる。
空は透き通る様な青をしていた。その先には明日が広がっている。
「吉沢さん……」
 夏の日差しに手をかざす。どこまでも続く青空に飛行機雲が一本走っていた。
そんな私を見つめる様に、向かいの空き地の満開の向日葵が、風に揺られて笑っていた。


2013.6.01
『紫』第七号