雨の日の断片集

天川 葉月

一粒目:置き去りの傘

 雨の日の朝、僕は追い込まれていた。
 絶体絶命四面楚歌、そんな言葉が頭をよぎるけど、そんな場合ではない。頭の中で天国と地獄=i小学校の運動会で流れるあの曲)が再生されて鳴りやまない。雨もやまない。こんなことぼやいてる場合じゃない。
 冷静になって今の状況を見てみよう。
 今朝起きた時間は、普段起きる時刻の三十分後。時間には余裕をもって出社しているから、その時点で起き上がって急いで家を出ればそんなに問題はなかった。そこに驕りがあった。
 二度寝してしまったんだ、十分くらい。
この時点で四十分のロスタイム。
 むろんそこから慌てて起き上がって、すぐ顔洗って着替えて朝食は抜くけど、冷やした牛乳だけはコップ一杯分飲み干してなんてことが出来るくらいには余裕があったから、このまま急げばぎりぎり間に合うぐらいには思ってたんだ。
 外は割とシャレにならないような雨が降っていて、玄関にある傘置きを見るといつもならそこにあるべき物がない。
 僕は傘を仕事場に置き去りにした事を思い出した。
 昨日の帰りに雨が止んでしまったから、つい持って帰るのを忘れてしまったんだ。
 その翌日の朝に雨が降ってしまうとは思ってなかったけどね。
 僕は一人暮らし。
 そこまで気が回らなかったから「こんなこともあろうかと」なんて予備の傘を置いてあることもなく当然傘は一本しかない。
 この結構激しい雨は忘れられた傘の恨み雨なのだろうか?
 なんて詩的に感傷になど浸ってないで、とにかくこれから考えるべきことはただ一つ。どうしよう。
 あいも変わらず僕の気持ちも知らないで外は雨が降っている。
 小雨程度なら、鞄を傘代わりにして、駅あるいはコンビニまで走ってビニール傘を購入できる。そんな余裕時間的にも金銭的にもあまりないんだけど。
 そうすれば、大して濡れずに済むかもしれない。
 なんて幻想は、残念なことに散々と降り注ぐ雨によって砕かれてしまったわけだけど、だからこんな悠長に構えてる場合じゃないんだって。
 これじゃ近場のコンビニまで走っていったとしても、全身びしょ濡れになることは覚悟しなければならないし、そんな状態で仕事なんかできるわけないしこんなこと考えている余裕も本当はないし。
 こういう時に慌てるとろくなことにならないんだよね。そうそう冷静になるんだ自分。落ち着いて深呼吸深呼吸。
そうだ、確かレインコートがあった筈。それを着ていけばいい!
 あぁ、もう。それも会社なんじゃないか。
 こんなことなら「突然雨降ったときとか傘忘れたときに便利じゃん」とか言って置いてきたりするんじゃなかった。
 もう仕方ない。ここは覚悟を決めよう。
 多少濡れたって構わないから、ここから全力疾走でコンビニまで行けば、そこまでびしょ濡れにまではならないだろう、と願いたい。むしろそうでないと困る。
 そうと決まれば急ぐしかない。
 と言うかそもそも、もう出ないと間に合わないんだってば。
 玄関を開け、降りしきる雨に絶望するけど、そんなのはもうどうだっていい些細なことでしかない。
 冷たい雨の滴が僕の体に降り注ぐけど、そんなの気にしていられない。もう知らない。ただ目的地に向かって走るだけ。
 道路を挟んだ向こう側に、目的のコンビニが見えた。時間的にはちょっとアウトかも知れないけどまだ大丈夫、多分。
 歩行者用の青信号が既に点滅していたけど、今の僕に、信号待ちをしている余裕などない。いやここで立ち止まったら確実に遅刻なんだってここの信号待ち時間長いから。
 強行突破だ!誰かに注意されたような気もするけど知るか!
 雨による視界の悪さには目もくれず、既に赤信号となった横断歩道を突っ切る、のと同時に聞こえてきたのは耳をつんざくようなブレーキ音。
 目の前にトラックが迫ってい―― 
 
 ――ガタンと体が大きく揺れ、僕は現実に引き戻された。
 焦っていてはなにもいいことはないといつも思っていたのに、今朝慌てて家を出た結果が、人身事故だ。本当に碌なことがない。
 こうして無事でいられるのは、トラックに轢かれかけたあの時、声をかけた男子学生が僕を突き飛ばしてくれたおかげなんだけど。
 僕は気が動転していて、スーツがずぶ濡れになってしまったのも気にしないで、脇目も振らずそこから逃げ出してしまったんだ。会社には遅刻せずに済んだけど、服を乾かしている間、冷静になったのと同時に違う種類の焦りを感じた。
ニュースにはなってないからそこまで大事にはなっていないと思うんだけど、もしあの男子学生がトラックに撥ねられた結果重傷を負ってしまったら、死んでしまったらと考えると気が気じゃない。
幸い職場の誰にも怪しまれてはいないし、あの道はあの時間帯人通りが少ないほうだから目撃者もそういないはずで、僕が彼を死なせてしまったからといって誰も僕を責めてはくれないんだろうけど。それでも遺族が僕に詰め寄ってきたら、会社を追いやられたらと思うと、不安で押しつぶされそうになる。
仕事中はずっと平静を装いながら内心ではビクビクしていた。ニュースが気になってしょうがなかった。
そしてついに耐え切れなくなって、逃げるように早退した。といっても、最近の大規模な人事異動以来残業ばかりで定時に帰れたことなんて殆どない中、今日は微熱もあって定時に帰っただけだけど。
 前回のプロジェクトがほとんど僕のせいで失敗してしまったせいで、僕の上司が身代わりになったかのようにリストラされてしまったことだし、ここで何とか凌がないと次は僕の番だ
 そしてさっき、帰りの電車の中でとうとう彼が死んでしまったことを携帯のニュースで知ってしまった。ほとんど即死だったらしい。文面には、僕を突き飛ばしてかばったことは書かれていなかった。
 それから暫く呆然として、目的の駅を通り過ぎているのに気付いた。それが今だ。
 思えば、僕は誰かにかばってもらってばかりだ。見ず知らずの人にまで、それも命がけでかばってもらえるほど僕は優れた人間でもないのに。
 このまま守ってもらってばかりの人生を惨めに終わってしまうのは嫌だ。どうせ死ぬなら、せめて彼に、彼の遺族にありがとうと伝えたい。そして謝りたい。誠心誠意。
 僕は、会社から持ってきた傘が手元にあることを確認してから電車を降りて、目的の駅へ引き返すために反対側のホームで次の電車を待つ。雨は弱くなってきているけど、まだ降っている。
 そうだ。家に帰る前に現場に行って、彼に花を手向けよう。名前も住所も知らないけど、そこで彼に感謝と謝罪の言葉を添えよう。
 そう考えていると、特急列車の通過アナウンスが流れる。駅は少し混んでいて僕は列の先頭だから、今立っている位置は白線ギリギリだ。このまま突き飛ばされたら御陀仏だなと縁起でもない想像をしていると、特急電車がホームに近づいてきた。
 その瞬間、僕は突き落とされた。
 今朝と同じような背中への衝撃と、今朝とは違う浮遊感。
 僕が今落ちているこの瞬間は非常にゆっくり進んでいて、スローモーションの映像を体感しているようだ。
 そして同じくらいゆっくりと電車が目の前に迫ってくる。今朝見えたトラックはとても速く見えたのに。
 今朝僕を突き飛ばした彼も、きっとこんな光景を見ていたんだ。
 避けようのない死。絶対的な死。それを自覚して、少しでも長く生きようとして時の流れを遅く感じさせる。かつて読んだ本にはそう書かれていて、そんなことを思い出せるほど、ゆっくりと時間は進んでいた。
 彼に突き飛ばされて生き残った僕が、誰かに突き飛ばされて死んでしまうなんて、死ぬほど焦った結果彼を死なせた僕が、死ぬ直前にこんな余裕を持てるほどゆったり落ち着けるだなんてとんだ皮肉だよね。
 最期に墓参りぐらいしたかったな。
 僕はそっと目を閉じ、これから訪れる死に身構える。
 電車に轢かれれば、ほぼ確実に即死だろう。全身バラバラになることだってざらだし。まぁ、痛い痛くない以前に、それを感じる前に死んじゃうよね。
 ――今になって思い出した。

窓、開けっ放しだ。

二粒目:開けたままの窓

 雨の日の昼に、私は自分の仕事の準備を始めた。
 カーテンを開け、雨の程度を確認する。
 予想以上の大雨だ。
 まずいことになってきたぞ。
 これからの仕事に差し支えなければいいが。
 向かい側のビルにある一室を確認する。
 窓が開いている。
 雨が吹き込んでくることを気にしていないのだろうか?
 ――いや、そんなはずはない。
 大切な資料やパソコンを濡らしてしまうかもしれないのに、そんな暴挙を犯してしまうはずもない。
 恐らく、エアコンが故障したのだろう。
 そうに違いない。
 そうでなければ用心深く悪賢いあいつが窓を開けるはずもない。
 そう。あいつが。
 あいつさえ居なければ私はクビにならずにすんだのだ。
 我が社もこのたび不況の煽りを受けて大幅な人事異動が行われたが、私はこれまで多くの実績を上げていたから、本来なら左遷される道理は無い。
 しかし、あいつが足を引っ張ったせいで、当時私を中心にして進めていたプロジェクトは大失敗。そしてこの様だ。クビになった。
 納得いかないのは、その元凶となったあいつが、どうして何のお咎めもなく堂々と私が座っていた机にいるのかと言うことだ。
 だから、私はあいつに報復してやることにした。
 銃とその付属品を購入するにはかなりの額を費やしたが、金で復讐ができるなら軽いものだ。まさかあいつも自分が狙撃されるとは夢にも思うまい。
 娘には少々怪しまれたが、やむをえまい。
 窓が開いているなら、そのまま奴が窓を閉めるために窓際まで来たところを撃てばそれでいい。それが確実だ。
 だが、いくら雨音で銃声がかき消されるといっても白昼堂々発砲すれば私の姿が見られてしまう可能性が高い。
 第一、あいつに恨みを持っているとすれば、間違いなく私だけだ。仮にあいつが殺されたら、まずは私が疑われるだろう。そうならない為にも、入手ルートが分からないように購入した狙撃銃を使用するのだから。善良な一般市民が手に入らない様な代物である以上、警察はまず怨恨よりも陰謀による暗殺だという方向で捜査を進めるに違いない。
 それに、他の者にも流れ弾が当たるかもしれない。私はあいつを殺したいのであって、できれば他人は巻き込みたくない。
 あいつが残業してからビルを出るその瞬間を狙おうと思う。
 その時までしばらく寝て待っておこう。計画を立てるために一睡もしていないんだ。

 ふと目が覚めると、時計の針は6時を指していた。
 アラームは5時に設定しておいたはずだ。
 何故?
 ……どうやらアラーム音を出す装置が壊れてしまっているようだ。
 しくじったか?
 外を見ると、まだ窓は開いたままだった。
 大丈夫だ。電気もまだついているからあいつはまだ帰っていないはずだ。
 これからは一時も窓から目を離すわけにはいかない。
 奴は今日も最後まで残るはずだから、窓を閉めるのは間違いなくあいつだ。
 だから私は、窓に近づいてきた人間だけを撃てばいい。
 しかし、1時間程待ってもあいつは窓際に来ない。
 と言うか、あいつは本当にあの部屋の中にいるのか?
 もう帰っているんじゃないか?
 とすれば、今こうしているのは全くの無駄なんじゃないか?
 などと思っていると、電気が消えた。
 だが窓は開いたままだ。
 どういうことだ?
 まさかあいつ、私に命を狙われているなんて言うことに気づいたのか?
 いや、そんなはずはない。銃の購入だって誰にもバレないように慎重に行ったはずだ。
 と言うより、私がどのタイミングを狙って撃つかどうかなんて奴にはわからないはず……。えぇい。考えていても仕方ない。
 兎に角、ビルから出てきたあいつを狙撃するしかない。
 うまいところ当たってくれればよいのだが。射撃部の体験入部でちょっと触ったぐらいしか経験はないから失敗する可能性のほうが――いや、何を考えているのだ私は。それが何だ。私の執念はその程度ではないはずだろうが。何を弱気になっている。
 銃を手に取り、窓を開けたところで丁度あいつらしい人物が外に出てきた。
 顔は傘に隠れてうまく判別できないが、あの青い傘はあいつの物だから、まず間違いない。
 すかさずトリガーに指をかけ、スコープを覗き込み、照準をあいつの心臓に合わせ、チャンスを窺う。
 いきなり目の前に黒い影が飛び込んできて、私の視界を塞いだ。
 驚きのあまり指に力を入れてしまった。
 サプレッサーで隠しきれない発砲音がして、少し遅れて傘を持った男が倒れる。やった当たった。今日の私は運がいい。
 飛び込んできたのは烏だったようだが、過程はどうあれ、とにかく成功したようだ。一発で成功したのは運がいい。
 今日は久々にワインでも飲むか。
 窓から外を見ると、雲間から見える月の光に照らされた雨の滴が輝いていた。まるで私を祝福するかのように。

 と思っていたのだが、奴はまだもがいていた。脇腹を抑えて蹲っている。仕留め損ねたか。
 確実に殺し切るために残っている弾全てを撃ち込む。と言っても五発しかないが。
 一発目、右腕に命中。二発目、三発目、外れ。四発目腹に命中。五発目、右胸に命中。結局頭や心臓はうち抜けず、あいつは直ぐには死ななかった。
 そちらのほうが良いか。あいつには苦しんで苦しんで苦しみぬいてから死んでもらうことにしよう。その方が私の気分がいい。
 あいつの体から噴き出た血が雨によって流されていくが、その範囲は広く、出血が夥しいことが目に見えてわかる。血が鮮やかな赤であることから、動脈から出血しているのは明らかだ。今から救急車が来てももう助かるまい。
 あいつの苦しむ顔を肴に、私は優雅にグラスを傾けよう。
 スコープを覗き込み、顔を確認する。
 ……何かおかしなものが見えた気がするのでもう一度見る。
 顔だけでなく、服装にも違和感を覚え、全身をくまなく見る。
 結果は変わらず、見えるものは同じ。
私は目の前の現実を受け入れることが出来ずにいた。

 誰だあいつ。


三粒目:月の雫

 雨の日の夜に、オレは家を飛び出した。
 理由はどうという事でもない。
 親の教育方針についていけなくなったんだ。
 昔から色々無茶やってきたのもあるが、そもそも厳格な親とは馬が合わなかった。オレのいう事に耳を貸さずに、自分の意見ばかり通そうとするのが気に食わなかった。
 それでも、今までは何とか我慢できた。
 だが、行きたくもない大学の、入りたくもない学部を無理矢理受験させようとする親の気持ちが分からなかった。
 大学に入っても就職できるとは限らないこの時代なんだから、国家試験を受けて公務員にでもなりなさい?高卒なんて論外だ?
 ふざけるな。オレの人生は私が決める。
 親の不遜な態度に嫌気がさしたオレは、どこかに行くという宛もなく、手ぶらでただ走った。
 雨が弱まった雲間から月の光が漏れ出る。
 月明かりに照らされて、イルミネーションもない無機質なビル群の壁が光っていた。
雨粒もガラス細工のような光沢を見せて落ちて砕ける。
 しかし急に雲が厚くなり月が見えなくなると、雨が酷くなってきたので、一番近くにあったビルで雨宿りをさせてもらう事にした。
 さて、これからどうする?
 もうじき、このビルからも残業が終わって帰る奴らもでてくるだろう。
 そうなったら、どうしてオレがこんな時間、こんな所にいるのか聞かれる羽目になる。そんなことになったら面倒だ。
 だが、外に出ようにも雨具なんて持ってきてないぞ。
 ……そうだ。丁度目の前の傘置きに、手ごろな青い傘がある。
 これを使って顔を隠せば、誰にも見られずに済む。
 この傘本来の持ち主には悪いが、この傘を使わせてもらおう。
 早速、このビルから立ち去ろう。
 足下を彷徨(うろつ)いていた烏を追い払い、ビルの外へと出る。
 直後突然感じた、脇腹を抉られたような鋭い痛み。
 急に体が重ったるくなって、足に力が入らず冷たい水溜まりに倒れ込む。水たまりが紅く染まっていく。
 撃たれたのだと理解するころには、もう意識が朦朧としていた。
続いて右腕が打ち抜かれたのが、痛みを堪えているオレに追い打ちをかける。次いで腹、右胸と撃たれた。熱い。息が苦しい。
残された力で仰向けになったオレが目にした物は、ただ無慈悲に輝く月の光と、それに照らされて煌めく雨の雫だった。
 まるで、月がオレの死を悲しんで慟哭(ない)ているようだ。
 チクショウ、死にたくねぇよ……。

四粒目:そして雨はやむ

 雨上がりの抜けるような晴天の今朝は、悲しいくらいにお別れには不釣り合いでした。
 昨日の朝まで明るい表情を見せていた彼。
そんな彼が死んだなんて突然言われても、信じられるわけがありません。
 わたしは彼を愛していたんです。
 あの日、帰りの電車の中で彼を一目見たとき、胸が熱くなるのをたしかに感じました。
 その瞬間、わたしの退屈でありふれた日常は、彼という存在で鮮やかに彩られたんです。
 要するに、わたしは彼に一目惚れをしてしまったんですよ。
 それからわたしは、彼とつきあうためにあらゆる努力を惜しみませんでした。
 彼の為にお弁当も作りましたし、彼のいない間に彼の部屋のお掃除だって進んでやりました。もちろん、彼と一緒に登下校だってしましたよ?恥ずかしくてちょっと遠くででしか出来ませんでしたが。
 今や彼の味の好みも歩くときの些細な癖やよく見るテレビ番組から女性のタイプまで、彼のことでわたしが知らないことなんてありません。
 勿論、彼がやさぐれていることも分かっていました。
 それでもわたしは彼のことをずっと愛せる。
 だから、勇気を持ってわたしは彼に告白をしたんです。
 彼の返答は「こんな自分でよければ、まずは……」みたいな感じだったと思います。
 よく覚えていないのは、返事を聞いたその瞬間、嬉しすぎて舞い上がっていたからでした。もし断られてしまったら、死んじゃおうとさえ思っていましたから。
 他に覚えていることと言えば、彼も意外とシャイな部分があるんだって思った事ぐらいでしょうか。
 わたしが彼に体育館裏口に来るよう言ったら、照れ隠しに「初対面だよな?」なんて返すぐらいですから、彼の緊張も相当な物だった筈ですよ。わたし達が初対面なんてそんなことあり得ないのに。
 そんな彼が交通事故で死んでしまったなんて、信じたくありませんでした。それも、誰かを庇って。その誰かは直ぐに立ち去ってしまったんですけど。
 彼が死んだ。その知らせを聞いたとき、永遠に続くはずの世界が枯れた花のように咲いた気がします。
 秒針は止まったまま静かに佇み、わたしの中で全てが崩れさっていくような音が聞こえました。
 わたしはこれから何を支えに生きてゆけばいいのですか?
 愛する者を喪ったわたしに、生きる価値はあるのですか?
 そう思うと、目からこぼれ落ちる雫を止めることはできませんでした。
 もし、今すぐに雨が降るなら、この涙ごとわたしを洗い流してくれればいいのに。
 一頻り泣いた後、わたしは彼との思い出に浸っていました。
 思えば、先日会社をリストラされた父にも迷惑をかけてしまったと思います。
 この不況で再就職も危ぶまれる中、よくわたしのわがままを聞いてくれたものでした。
 そんな父が、最近おかしな物を購入したようなんです。
 昨日宅配便で受け取った段ボール箱を愛でるように撫でるあの時の父の顔ほど、おぞましく見えた物はありません。
 何を買ったんでしょうか?
 「これでやっとあいつに」とか言ってましたたけど、何をするつもりなんでしょう?
 ……もう、どうでもいいですね。そんなこと。
 疲れちゃいました。
 それよりも、明後日彼の葬式が行われるらしいです。
 火葬場であがる彼の煙は、雲に溶け込み、雨になるのでしょうか?
 そうなったら良いな。
そうすれば、わたしと彼は一つになれる。そんな気がするんです。
 そんな淡い期待を胸に、わたしは目を閉じ足下の台を蹴るのでした。

 でも、その前に。

 彼を死なせたあの男だけには、その罪を償ってもらわないと。



                死粒目:そして雨は病む。



                         了

2013.6.18
『紫』第七号