二秒前の君から、最後の駅までの物語

あめんどう

二秒前の君は本当にそこにいたのだろうか。そのことが不安でならない。

彼は、頭の中で過去についての考察を巡らせている。今、この瞬間、彼が見ているものは、存在しているようにみえるけれど、それよりも前は? 本当にあったことなのだろうか。
例えば、今、目の前に流れていく車窓。誰も乗っていない電車の窓に映る景色はどうなのか。彼は、背筋を伸ばして、長椅子に座っている。二秒前に彼が見ていた景色の細部を思い出そうとする。しかしながら、集中するに連れて、彼の頭に描かれる像は、不正確でぼやけていくように思えた。茜色に染められた白い壁の赤い屋根の家、その前に薄汚れた灰色のブロック塀。窓は、どのようになっていたのか。どんな飾りが付けられていたのか。正確さを追い求めることで、彼の確信は揺らぐ。そのうちに、考え始めたときとは全く違ったイメージが出来上がる。
記憶とは、それそのものではない、と彼は判断する。自分が作り上げたパーツで構成されたフィクションなのだと。
彼の思考は、自分の外部から、己自身に向かう。私は二秒前にここにいたのだろうか、と彼は考えた。記憶の不完全性を理解したならば、当然、自分自身についての記憶も疑う必要があるだろう。
彼は、自分が二秒前にも、このクッションの柔らかな長椅子に腰をおろしていた、と記憶している。それは、本当のことなのだろうか。記憶が作り上げたフィクションではないだろうか、と彼は不安になる。
そうして、最後に、現在という問題にぶつかる。今、見ている、感じている、この瞬間すら怪しいのではないだろうか。外部からの情報を彼は正しく、そのもののままに感じ取っているのだろうか。
結局は、と彼は思う。なにかしらの基準、寄りかかる場所がなければ、怪しむだけで、なにもわからなくなってしまう。
そこまで考えると、彼は席を立って、夕焼けの光が差し込む車両をとぼとぼと進んでいくことにした。床には、茜色に浮かび上がった彼の影が陽炎のように揺れていた。
彼がいつからこの場所にいたのかは定かでない。彼自身の記憶の中にはそのことに関するいくつかの物語が形成されていたものの、どれも不正確だと思われたので、とりあえず考えないことにしていた。
彼の記憶にある程度の正確性があると仮定して、説明をさせていただこう。彼は、彼以外誰も乗っていない電車の乗客である。その電車はさまざまな場所を通り、一度も止まったことはない。車両の数は、彼にもわからなかった。彼は、ずいぶんと前から、車両と車両の間を移動しながら過ごしていた。はじめに移動したとき、彼は進行方向に進んだのか、それとも反対方向に進んだのか覚えていない。それくらい前から、彼は移動を続けているということだ。そうして、一番重要なことなのだが、車両は一つとして同じものがない。車両には、それぞれに小さな違いがあり、一番顕著なもので言えば、吊り広告が違っていることがあげられる。
彼が過去についての考察を行っていた車両の吊り広告には、「言葉によって固定」と書かれていた。
彼は、進行方向に向って車両を変えた。その車両の広告には「子どものための哲学」と書かれている。彼は、なるほどと感心した。確かに、自分の存在について初めて疑問を持ち始めるのは子供のころであろう。その時、電車の周りには夜の帳が下りていて、窓ガラスに顔を近づけると、色の白い男の子の顔が映った。そうか私は子供だったのか、と彼は納得し、「子供だった私は自分の存在について考え始めた」と言葉を呟いた。

彼は、そのあとも車両を進んだり戻ったりした。不思議なことに、戻った場合でも、同じ車両に辿り着くことはなかった。
彼は、その過程で、さまざまな言葉と出会うこととなった。彼が覚えているのは、それらの一部にすぎない。
「浮いた初恋」「短めの終わり」「諦めて、動く」「スパナ」「ほうきとハサミ」「鏡と認識」「痛みを噛みしめること」
「諦めて、動く」に出会ったのが何時のことか、正確には覚えていないが、「子供のための哲学」よりもだいぶん後なのは確かだった。その時電車は、長いトンネルの中を気が遠くなるほど進んでいる途中で、真っ黒な窓に反射した自分の姿をみることになったのだが、「子供のための哲学」のときよりも背が伸びて、がっしりとした体型になっていた。
「浮いた初恋」と「短めの終わり」は隣接していて、「浮いた初恋」のほうは暖房が効きすぎていたのに対して、「短めの終わり」では冷房がかかっていた。彼は両方の車両で一日づつ過ごし、夜は長椅子の上で眠った。
広告の文字は、彼自身の物語を形成する一要素であり、ときに彼の状態を表し、ときに気持ちの一部だけを切り取っていた。言葉だけが、彼を限定するのではないが、それでも彼の一部として表出した言葉は記憶に残っていて、物語の中枢を占めることとなる。

車両移動が多くなるに連れて、彼の動きは緩慢さを伴うようになっていた。ガラスの中に映った彼の姿は、もう若くなく白髪が混じり、関節は節くれだっている。それでも、彼は車両を進んでいく。それ以外に、どうしようもないから。
動きがゆっくりになるのは、悪いことばかりでもなかった。今まで見えなかったもの、考えなかったこと、感じなかったことを、しっかりと噛みしめることができるようになる。
例えば、足の痛み。もう、ずっと前の頃よりも、だいぶん細くなってしまった足は、一歩一歩床に触れるごとに、内から響くように痛んだ。その痛みのせいで、椅子に座り込むことも多くなったが、その度に過去に起きたさまざまな言葉を思い出すことができた。そうして、それらの意味を、言葉の奥にある、自分の想いをもう一度取り戻しながら、物語を編んでいくのだ。
今、車窓に写っているのは、空の低いところにある太陽に照らされた岩場の入江だった。彼の電車は、その入江の上の土手道を走っている。力の弱い太陽の日に照らされた海は静かに光を反射するプリズムで、彼は目を細めて、波間を眺めていた。そうしているうちに、目尻に湿り気を感じ、小さな雫が流れて、皺だらけの頬で止まった。彼は、仄かな暖かさを感じながら眠りに落ちていった。
誰かに肩を擦れて彼は目覚めた。窓は真っ黒で、どうもトンネルの中を進んでいるようだ。影になって顔は見えなかったが、彼を起こしてくれた人は、青い制服を着ていて、車掌だと思われる。チラチラした電灯の明かりに照らされた青は彼が見たなかで一番鮮やかであった。
「お客様、もうそろそろ、終点です。お忘れ物のなきようにお願いします」
「終点……では、この電車は停まるのか」
「そうです。あなたを置いて、そうしてまた走り出します」
「私が置いてきたものはどうなるんだ」
「お忘れ物のなきようにと申し上げましたが」
「そうか」
 電車は振動を感じさせることもなく停まる。もはや、歩くこともままならない彼は顔の見えない車掌に抱かれて下車をした。降りる間際に見た広告には、なにも書かれていなかった。
 駅のベンチに優しく横たえられた彼は、会釈をした車掌が電車に乗って去っていくのをみつめる。電車は、甲高い電子音とともに発車した。目の前を過ぎていく車両を眺めることは、彼の過去を精算することであり、彼はその行為をしっかりと成し遂げた。
 電車が消えた地下の駅は、全てを凍らすような、冷気が漂っていた。彼の横たわっているベンチの周りを照らす、白とも青ともとれるような照明以外には明かりもなく、見える範囲には、階段も、柱も存在していない。
 彼はベンチの上で、最後の考え事をしている。それは、二秒前の自分が本当にいたのかどうかという問題についてであった。いつか考えたことを、もう一度思い出しながら、彼は考えた。そうして、一つの願いを口にする。
「二秒前の私は存在していなければならない。そうでなければ、私は耐えられない」
彼は、青白い光りに照らされて、最後の眠りについた。しばらくしたら、この照明も光を失うだろうと、僕は思う。

2013.