20cm上のサカナ

赤身

 魚が好きだ。朝起きてから夜眠るまでずっと、視界の端を泳いでいてほしいくらいに。三食魚を食べて、体のぜんぶが魚でできていればいいのにと思うくらいに。魚が好きだ。
 私は人間であって、魚ではない。どう足掻いても彼らと同じ生活空間を共有することは不可能だ。何も私は水泳が好きなわけではない。水を空気として吸って吐いて、うまれてから死ぬまで水の中がいい。おんなじ仲間と生活して、それでいて会話のない環境、その中での生活。私は魚になりたい。
 私は水族館という海のレプリカで満足しなくてはならなかった。水族館という空間はとても奇妙に思える。水槽の中の彼らは私のことなんかちっとも見ていなくて、触れられない位置にいるちいさな魚のひとつとしか、いやそうとすら思っていないのかもしれない。子供がどんなに歓声を上げながら力いっぱいガラスを叩いても泳ぐペースを崩さない姿は凜として映る。エイやカメが悠悠と泳ぐ大きな水槽の前で私は立ち尽くす。ずっとずっと眺めている。彼らが鱗をきらきらさせて、ライトアップされながらファッションショーのスターのように水槽を端から端まで練り動く様を眺めている。私は魚屋でもペットショップの店員でもないから色も形も大きさも特に気にならない。魚であること。水の中で生きている、私とは違う生物であること。それが私の魚に求めるすべてで私にとっての魚の意味。たくさんの名前も、味の違いも、淡水魚と海水魚の違いもよくわからない。けれど、どんな種類であれ水の中で生きている魚で、私の好きなものだ。
「早く次の水槽へ行こうよ」
「えっ」
 私は横に立っている男の顔をまじまじと見つめた。水槽の明るさに慣れていたせいか、一瞬男の顔は黒く塗り潰されてみえた。彼は暗いのか明るいのかわからない変な照明のついた館内になれないのか、しきりに目を擦って、視界を正すのは魚を見るためではなさそうだ。男とは同じ読書サークルに入っていた。活動内容は週に一度の読書会で本を紹介するというもの。ただしそれすら強制ではないので、拘束性はない。私は他のサークルには入っておらずバイトにも熱心ではなかったので、出席率は高かった。本の紹介は四月にやった一冊きりで、あとは専ら傍観者側に徹していた。週を重ねるうちに発言者はごく限定され、読書会が短くなっていった。男はその数少ない発言者の一人であった。彼が紹介する本はほとんど恋愛小説だった。この本のどこに感動した、どこに泣いた、と手振り身振りを付けて熱く語っていた。本の一節を読み上げることさえあった。発表の順が回ってくるまではおどおどと椅子に縮こまっているというのに、指名された途端饒舌になる。そのギャップが滑稽で自然と目で追ってしまっていた。
彼は私が順路を知らないとでも思ったのか、丁寧に看板を指さした。あっちへ行こう。そちらにはサンショウウオやヤモリのコーナーで、確かに「水族」には含まれるけれど私は興味がなかった。
「先に行っていてよ」
「えっ、どうして?」
 男は私の言葉に心底驚いていた。一緒に行かなくては意味がないだろう。どうしてそんな当然のことを分かっていないんだ。と当惑を通り越してこちらを責める目だった。彼が模範としている数多くの恋愛小説では、女性はそんなことを言わないのだろうな。
「早く行こうよ」
 馴れ馴れしく服の袖が引かれた。もう片方の腕は階段の手すりに伸びていて、もう微塵もこの水槽に注意を払っていない。私たちなんて見ていない魚はふらふらと泳いでいる。敵もいない、餌を取る必要もないのにどうして泳ぐのだろう、とふと思った。
 私は連れられるままに歩き出す。途中ヒールの高いパンプスで地面を捉え損ねて、体勢を崩した。ずきんと足首が痛む。男は気づいていないようだった。魚も気づいていないようだった。あの黒く濁った瞳はなにも見ていないようだった。ただヒレをひらひらさせている。
 この人はオオサンショウウオにもヤモリにも大して興味はないんだ。私は知っていた。私が行きたいと言ったから、仕方なく連れてきてくれただけ。この後は古本屋へ行くと約束していた。彼のいままで読んだおすすめを教えてもらう予定だった。その後の予定は聞かなかったけれど、なんとなく分かっていた。彼は自分の家がその古本屋の近くにあることをしきりに強調していた。
ベッドの中で「名前を呼んで」と囁かれたらどう返そう。私は彼の名前を思い出せなかった。

 初めてのキスは何味でもなかった。水の味がした。海ほど塩辛くはないけれど、ただ水の味がした。ふと魚の呼吸はこんな味なんじゃないかと思う。
 何度も唇を重ねた。それは呼吸の体験だった。私はばれないように小さく笑った。二人の唇の隙間からごぼごぼ泡が立ち上っていくところを想像して、うっとりと目を閉じた。男は何か他のことに必死で、私が彼の名前を覚えていないことなんて考えもできないようだった。私は安心した。安心して呼吸をした。水の味がする。私はいま魚だ。
私は目を閉じてにやにや笑っていた。
「ねえ」
「うん」
「何かべつのことを考えていない?」
「考えてないよ」
「何で笑っているの」
「別に」
「ねえセックスしやすい身長差って知ってる?」
「知らない」
 男は勝手に恥ずかしがって、一度キスをした。それより恥ずかしい内容を、サークルでは恥ずかしげなく演説しているというのに。
「22cmだって。身長どれくらい?」
「……147」
「俺が167cmだから……」
 少し考えて、足りないなと一人ごちた。私もすこぅし足りないねと繰り返した。そうしてまたキスをする。今度は声をあげて笑ってしまった。彼はそれを好意的に受け取ったようで、強く私を抱きしめた。
そのままそっと、自分のベッドに私を押し倒した。私は身長も小さくて体型も小柄だったから、彼にとっては造作もないことだった。自分の背中がシーツについたとき、彼の腕が私の項に回ったとき、ぞわりと不快感が走った。それは本能的な恐怖に近い。男はぎらぎらした目で私を見ていた。私はすぐさま彼の手を払いのけた。
ベッドの端でぶるぶる震えていると、男の手が回ってきて弱い力で私を抱きしめた。溜めていた息を吐く。そうして私は、先週の読書会で彼が紹介していた本に、こんなシーンがあったなと思い出す。
 暫くして彼は眠った。
 私はこの男の名前は知らないけれど、身長だけは知っている。それ以外にもいろいろ知ったけれど忘れてしまった。私はそっと男の腕を抜け出して、鞄を手に取った。本が何冊も詰まったそれはずっしりと重い。そうして玄関で高いヒールの靴を履いた。足首がまたずきんと痛む。
 そうか。あの男と私の身長は20cmも違うのか。
 私は刺すような朝日を避けるように俯き加減で家へ続く道を探した。大通りを見つければ、そこから駅を探して、電車に乗って帰れる……。
 影響を受けたのか、ふとどうでもいいことを思い出した。
 人間は自分の目線より上のものに注意を払いにくいらしい。つまり二人で横に並んで水槽を眺めていても、自然に見える範囲が、魚と水の量が20cm分も違うということだ。それは羨ましい。どんなに高いヒールを履いたって到底追いつけないんだ。
 ぐきりと足首がまた捻じれた。痛みで思わず笑ってしまう。手から力が抜けて鞄を道路に叩き付けてしまった。
 魚ならこうはならないのに。魚ならこうはならないのに。
 変な節を付けて歌っていたら、また魚に会いたくなった。小さくても大きくても、ふわりふわりとどこへでも漂っていける彼ら。目線の上へ、下へ無関心に流れていく彼ら。彼らに会いたい。今度は一人で水族館へ行こう。そうして夜になったらあの男のところへ行こう。そうして静かに息をしよう。魚になって二匹でベッドの中をたゆたう。人間ではない何か。
 足がじんじん痛んで、もう到底歩けないような気がした。周りの通行人がちらちらとこちらを見て笑っている。私は疲れ切っていた。服のまま寝たから髪は乱れ服は皺だらけで、足首が痛んで、他人には好奇の目で見られる。けれど歩かなくては帰れない。足が痛もうが歩かなくてはいけない。
 私は人間だから。
 私は魚になりたい。


2013.6.01
『紫』第七号